ブレトンウッズ‐たいせい【ブレトンウッズ体制】
ブレトンウッズ体制
ブレトン・ウッズ協定
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/25 17:09 UTC 版)
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ブレトン・ウッズ協定(ブレトン・ウッズきょうてい、英語: Bretton Woods Agreement)とは、第二次世界大戦中の1944年7月1日から22日までアメリカニューハンプシャー州ブレトンウッズのマウントワシントンホテルで開催された連合国通貨金融会議(45ヵ国参加[1])で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称[2]。
「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、「1オンス35USドル」と「金兌換」によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替レート)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。この体制は1971年のニクソン・ショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。この協定に基づいて確立した体制のことをブレトン・ウッズ体制という[2]。
概要
展開
国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定し、この2つの組織を中心とする世界の金融体制である。この協定が出来た理由は大きく分けて以下の2つである。
上記2つの理由のため、具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発などを行い、自由で多角的な世界貿易体制をつくるために為替レートの安定が計られた。国際通貨基金(IMF)については、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。
その際、アメリカの米ドルを世界の基軸通貨として、「金1オンスを35USドル」と定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。
この固定相場制のもとで、日本円はGHQ統治体制初期の輸出・輸入為替レートが異なる複数レートから、占領終了(1952年4月28日)後の日本のIMFおよび世銀へ加盟の翌年、1米ドル=360円(変動幅±1%)[3]に固定された。
学者の見解
経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは「第二次世界大戦後から1973年まで続いたブレトン・ウッズ体制の下では固定相場制だったので、現在(2013年)の世界経済よりも安定していたことは確かであり、最近のアメリカの経済学者の中からブレトン・ウッズ体制を再評価する声も出ている。しかし、ブレトン・ウッズ体制は、各国の生産性にばらつきが出てきたときに、対応できなくなってしまった。その結果、ブレトン・ウッズ体制は崩壊し、変動相場制に移行した」と指摘している[4]。
研究文献
- 『ケインズ全集 26 戦後世界の形成-ブレトン・ウッズと賠償 1941~46年の諸活動』東洋経済新報社、1988年
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- 第1章 ブレトン・ウッズとその後。ドナルド・モグリッジ編、石川健一・島村高嘉訳
- 牧野裕『IMFと世界銀行の誕生 英米の通貨協力とブレトンウッズ会議』日本経済評論社、2014年
- ベン・ステイル『ブレトンウッズの闘い ケインズ、ホワイトと新世界秩序の創造』小坂恵理訳、日本経済新聞出版社、2014年
- エド・コンウェイ『サミット 一九四四年ブレトンウッズ交渉の舞台裏』小谷野俊夫訳、一灯舎、2020年
脚注
- ^ “Who Was at Bretton Woods”. 2023年8月28日閲覧。
- ^ a b “ブレトン・ウッズ体制 | みずほ証券 ファイナンス用語集”. glossary.mizuho-sc.com. 2023年11月3日閲覧。
- ^ 『図解雑学 通貨と経済』p219 ナツメ社 野村茂治・著 2005年
- ^ “ジョセフ・E・スティグリッツ”. 集英社. 2018年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月2日閲覧。2013年6月号
関連項目
外部リンク
- 『ブレトン・ウッズ協定』 - コトバンク
ブレトン・ウッズ体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:31 UTC 版)
「国際通貨基金」の記事における「ブレトン・ウッズ体制」の解説
1929年の世界恐慌は世界の経済システムに大打撃を与え、「金本位制」はほとんどの国で放棄された。国際金融や為替を管轄する国際機関は存在せず、これが経済混乱を助長する一因となった。各国間では通貨の切り下げ競争が起こり、一部の国は経済混乱を乗り切るために軍拡と侵略へと走り、第二次世界大戦が引き起こされた。こうしたことから、連合国の戦後構想の一環として、国際金融や為替について各国間の協力と調整を行う国際機関の設立が構想された。この組織をめぐってはイギリスのジョン・メイナード・ケインズの案とアメリカのハリー・ホワイトの案の二つが提出されたが、最終的な組織はホワイトの案に近いものとなった。 1944年7月、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ブレトンウッズにおいて、国際金融並びに為替相場の安定を目的として、国際連合の「金融・財政会議」が開催された。この会議において調印された「ブレトン・ウッズ協定」によって、第二次世界大戦後復興策の一環として、安定した通貨制度を確保するための国際通貨基金の設立が国際復興開発銀行と共に決定され、1945年12月27日に29か国で創設された。 1947年3月にIMF協定が発効し、実際の業務を開始した。また、国際連合と協定を結び、国際連合の専門機関となった。一方、ソビエト連邦はブレトン・ウッズ会議には参加したものの結局批准せず、ソ連および社会主義諸国は1949年に経済相互援助会議(COMECON)を設立して「ブレトン・ウッズ体制」の枠外に立つことになった。こうしたことからIMFの本部はアメリカの首都であるワシントンD.C.に置かれることになり、他と懸絶した経済力を持つアメリカの発言権が強い組織となった。 発足当初は外為市場で交換される通貨を物理的に輸送していた。これを見かねた欧州経済協力機構が1950年にヨーロッパ支払同盟をつくった。これは各月末で決済する外為取引用の手形交換制度である。1958年、十分なキャッシュフローを備えるかたちでヨーロッパ通貨協定に改組された。業務の遂行に欧州各国の承諾がいらなくなり、かわりに経済協力開発機構が指揮を担った。協定は1972年に終了し、IMFがその業務を継承した。 国際通貨基金は戦後の経済秩序の根幹をなし、IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)と呼ばれるこの経済体制下で西側諸国は徐々に繁栄していくようになった。この体制の根幹はアメリカが「金1オンスを35USドル」と定め、そのドルに各国がペッグして固定相場制を取るという変則的な金本位制によって成り立っていた。金本位制を取るアメリカ・ドルに各国通貨がペッグしていることから、この時期の通貨体制を「金・ドル本位制」とも呼ぶ。この時期のIMFは参加各国の為替自由化を主要な目標とし、国際収支の赤字を理由に為替制限ができるIMF14条国から、それができないIMF8条国への参加各国の移行を目指していた。この目標は西ヨーロッパ諸国においては1961年に、日本においては1964年に達成された。 しかしこの頃から、西ヨーロッパ諸国や日本は急速に経済発展し、一方のアメリカは経済的に低迷するようになった。このアメリカの相対的な経済優位の喪失は、市場からマイナスの評価を下され、アメリカから大量の金が流出するようになった。また、アメリカによるベトナム戦争の軍事介入は、アメリカの戦費を増大させ、アメリカの財政赤字をますます悪化させた。そして、世界において、アメリカ・ドルへの信頼がさらに低下していった。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が揺らぎ始めたのである。 こうした状況を改善するため、IMFは1969年の第一次協定改正によって、金やドル等の既存の準備資産を補完するための公的準備資産である「特別引出権(SDR)」を創設した。これにより、加盟国はそれまでのIMFに対する直接借入れに加え、他の加盟国からIMFが定める「自由利用可能通貨」(2018年現在はドル・ポンド・ユーロ・円・人民元)という通貨バスケットにある通貨を融通してもらうことが可能になったが、それでも、アメリカの貿易赤字と信認の低下は依然と続いた。アメリカからの金の流出も続いた。 そして、ついに、1971年8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、アメリカ・ドルと金との兌換停止を電撃的に発表した。これにより、「金・ドル本位制」は崩壊した(詳細は「ニクソン・ショック」を参照)。これは同時にブレトン・ウッズ体制の崩壊をも意味していた。 このアメリカの発表を受けて、世界各国は新たな国際通貨体制を模索し、1971年12月18日、とりあえず、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とする「スミソニアン協定」を締結し、固定相場制の存続を図ろうとしたが、ドルの暴落は依然として止まらず、固定相場制は存続不可能となった。そして、世界各国は相次いで変動相場制を採用し、1973年にはスミソニアン体制は完全に崩壊することになった。この状況に対し、IMFは1976年に変動相場制の承認や金の公定価格の廃止を含んだ「キングストン合意」を採択し、1978年には発効した。世界経済は、変動相場制を基礎とする「キングストン体制」が新たに始まったのである。
※この「ブレトン・ウッズ体制」の解説は、「国際通貨基金」の解説の一部です。
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