柔軟な為替相場制:1973年~現在
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「グローバル金融システム」の記事における「柔軟な為替相場制:1973年~現在」の解説
ブレトン・ウッズ体制は為替レートの安定性を維持し国際貿易の拡大を促した。こうした成功の陰に制度設計の潜在的欠陥が隠れていた。貿易の持続的成長を支えるための国際準備金の供給を増やすメカニズムが存在しなかったのだ:22。この体制は1950年代後半から1960年代初頭にかけて市場の圧力に晒された。市場の圧力に苦慮した主要参加者の間で結束が緩み始めた。中央銀行は準備金として保有するために多くの米ドルを必要としたが、マネーサプライの拡大がドル準備を超過し為替ペッグを危うくするならばマネーサプライを拡大できなかった。国際準備金へのニーズに対応するため、ブレトン・ウッズ体制は米国がドルの赤字を出すことに依存していた。結果として、ドルの価値は金の裏付けを超え始めた。1960年代の初め、投資家はロンドン市場において米国市場より有利なレートで金を米ドルに売ることができた。これはドルの過大評価のシグナルであった。ベルギー系米国人経済学者ロバート・トリフィンはこの問題を明らかにした。経済的な国益は世界の準備通貨の管理者としての国際的な目的と対立する。この問題は現在「トリフィンのジレンマ」と呼ばれる:34–35。 人為的に低く抑えられた金価格に対し、フランスは1968年に懸念を表明し、かつての金本位制に戻ることを求めた。一方、米国がベトナム戦争の軍事費を融通するためマネーサプライを拡大すると、過剰なドルが国際市場に流れ込んだ。米国の経常収支が19世紀以来初めて赤字に陥ると、米国の金準備は投機に襲われた。1971年8月、米国大統領リチャード・ニクソンはニクソン・ショックの一環として金と米ドルの交換を中止した。金の窓口の閉鎖は、米ドル切り下げの調整負担を他の国々に押し付ける効果があった。投機トレーダーは他の通貨がドルに対して増価することを見越してドルを売り他の通貨を買い漁った。資本フローが流入した国の中央銀行は困難に陥った。マネーサプライのインフレ的膨張か、およそ効果に乏しい資本統制か、あるいは変動為替レートか、このうちどれかを選ばなければならなかった:34–35:14–15。 米ドルに関わるこれらの問題を受けて、G10諸国は1971年12月にスミソニアン協定を結んだ。スミソニアン協定は、ブレトン・ウッズ体制を修正し、金のドル価格を1オンス38米ドルに引き上げ、為替レートの変動幅を2.25%に拡大した。しかしスミソニアン協定はブレトン・ウッズ体制を2年間延命しただけで終わった:6–7。システムを侵食したのは米ドルの切り下げだけではなかった。1970年代の石油危機もシステムを侵食した。石油危機によってオイルダラーの循環や国際収支のファイナンスのための国際金融市場の重要度が増した。世界の準備通貨である米ドルが変動相場制に移行すると、他の国々も変動相場制を採用していった:5–7。
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