危機の時代とは? わかりやすく解説

危機の時代(1973年 - 1991年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 01:50 UTC 版)

短い20世紀」の記事における「危機の時代(1973年 - 1991年)」の解説

1973年には先進諸国変動相場制導入されたが、数ヵ月後には第4次中東戦争勃発きっかけとして原油価格の高騰などからオイルショックに陥り、これまでエネルギー源中東石油依存してきた先進諸国経済打撃与えたそれまで好調だった世界経済地すべり的停滞へと向かい経済含めた社会情勢などが不確実さを増したことから、当時区分は「地すべり時代」「不確実危機新し時代」とも呼ばれる1989年には東欧革命起き、アメリカ・ソ連両国首脳により半世紀近く続いた冷戦終焉宣言出された。またこの年起きたベルリンの壁崩壊により、翌年には東西ドイツ再統一された。共産主義・社会主義陣営敗北によって、最終的に1991年ソビエト連邦の崩壊へと結実している。「短い20世紀」の概念では、この出来事以ってサイクル終了考えられている。

※この「危機の時代(1973年 - 1991年)」の解説は、「短い20世紀」の解説の一部です。
「危機の時代(1973年 - 1991年)」を含む「短い20世紀」の記事については、「短い20世紀」の概要を参照ください。


危機の時代(1958年-1962年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 03:08 UTC 版)

「冷戦」記事における「危機の時代(1958年-1962年)」の解説

互いを常に「仮想敵国」と想定し仮想敵国戦争になった場合勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大競い合い軍備拡張続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発宇宙開発競争である。両陣営は、目には目をにはを、との考え方からそれぞれ核兵器大量に所持するうになるまた、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットU-2などの高高度飛行する偵察機宇宙から敵を監視するための人工衛星開発没頭し国威発揚のために有人宇宙飛行月探査活動活発化した。 しかし、ソ連アメリカ直接衝突は、皮肉にも脅威による牽制発生しなかった。特に1962年キューバ危機によって、米ソ全面核戦争危機現実化したため、翌年から緊張緩和外交活動開始されるようになったのである。 その一方第三世界諸国では、各陣営支援の元で実際戦火上がった。これは、二つ大国熱い戦争肩代わりする、代理戦争呼ばれたまた、キューバ危機契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国対す影響力を得ることを企てたソ連の動き対しアメリカブラジルボリビアウルグアイなど各国親米軍事独裁政権への肩入れ共産勢力排除行いその結果共産勢力排除成功した。しかし、その後冷戦終結まで永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦汚職軍事勢力同士によるクーデター横行し民衆貧困にあえぐことになる。

※この「危機の時代(1958年-1962年)」の解説は、「冷戦」の解説の一部です。
「危機の時代(1958年-1962年)」を含む「冷戦」の記事については、「冷戦」の概要を参照ください。


危機の時代(1825~1831年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 00:25 UTC 版)

ブラック・ウォー」の記事における「危機の時代(1825~1831年)」の解説

1825年から1828年にかけて、先住民襲撃件数年々2倍以上に増え入植者たちはパニック陥ったクレメンツは「これは従来戦争ではなく、敵は従来の方法では対処できなかった」「アボリジニー一つ民族ではなくいくつもバラバラ部族構成されていた。彼らには本拠地なければ認識できる指揮系統もなかった。」と述べている。 1824年5月から植民地総督務めたジョージ・アーサーは、アボリジニー英国法保護下に置き、彼らを故意殺害し続けヨーロッパ人告発し裁判にかけると布告した一方1826年9月には、同年初めに入植者3人を刺した罪で逮捕され2人アボリジニー絞首刑処したアーサー刑の執行さらなる残虐行為防ぎ融和的な行動につながると期待していた。しかし、1826年9月から11月にかけて、さらに6人の入植者殺害された。その中にはキャンベル・タウンの「立派な入植者」であるジョージ・テイラー・ジュニアも含まれており、彼の遺体は「たくさんの突き刺され、石やワディ殴られ頭部はひどく粉々になっていた」と報道された。これに対してコロニアル・タイムズ紙は「自衛は自然の第一法則である。政府先住民追い出さなければならない。そうしなければ、彼らは野獣のように狩られ破壊されるだろう!」と主張するとともにすべてのアボリジニー定住地区からバス海峡の島に強制的に移住させるよう求めたパニック高まり対応してアーサー1826年11月29日政府通達行い認定され国家から侵略受けた場合同様に入植者やその財産攻撃されたとき、アボリジニを殺すことができると宣言した。この通達はコロニアル・タイムズ紙ではアボリジニー対す宣戦布告受け取られ入植者中には「彼らを撃ち殺すのは崇高な使命だ」と考える者もいた。しかしクレメンツは、アボリジニーを殺すことの合法性入植者には明らかにされていなかったと考えており、歴史家のリンドール・ライアンは「アーサーには彼らを降伏させる以外の目的はなかった」と主張している。 1826年から7年にかけての夏、アボリジニービッグ・リバー、オイスター・ベイ、ノース・ミッドランズ氏族は、農場家畜飼育者に突き刺し入植者とその羊や牛は、カンガルー狩猟場から移動するよう要求した。これに激しく反発した入植者により多く大量殺戮が行われたが、当時はあまり報道されなかった。1826年12月8日、キッカーターポラーが率い一派タスマニア州リッチモンド近くのバンク・ヒル農場農場監督脅したが、その翌日にはフット40連隊兵士がオイスター・ベイ国のアボリジニ14人を殺害し、キッカーターポラーを含む9人を捕らえて投獄した1827年4月今度ロンセストンの南、キャンベル・タウン近くマウント・オーガスタスにあるヒュー・マレーの農場2人羊飼い殺害された。この報復として、第40連隊分隊伴った入植者一団は、夜明け無防備なアボリジニキャンプ攻撃仕掛け70人ものアボリジニ男性女性子供殺害した3月4月にも何人かの入植者囚人使用人殺され追撃隊は夜明け襲撃報復攻撃行った1827年5月、オイスターベイのアボリジニータスマニア州スワンシー近くのグレート・スワンポートで家畜管理人殺害し、これに対して兵士野戦警察入植者家畜管理人一団犯人キャンプ夜襲をかけた。報告書にはこう記されている。「小さな焚き火囲んでいる暗い集団に、一斉に銃弾打ち込み相当数殺害した。」 ライアン計算によると、1826年12月1日から1827年7月31日までの8ヶ月間に、入植地15人の入植者殺したことへの報復として、200人以上のアボリジニー殺された。1827年11月にソレル・バレーで行われた1回追跡で、オイスター・ベイに住む150人の一族全員殺され可能性があり、アボリジニー人口数は大幅に減少した9月アーサーはさらに26人の野戦警察官任命し、第40連隊とニュー・サウス・ウェールズ・ロイヤル・ベテラン・カンパニーから55人の兵士開拓地配備して対立の激化対処した1827年9月から翌年3月までの間に、開拓地で少なくとも70件のアボリジニ襲撃報告され20人の入植者の命が奪われた。1828年3月までに、アーサーによる1826年11月公式通知から16ヶ月間の入植地での死者数は、入植者43人、アボリジニー350人に上った。しかしその頃になると、アボリジニー入植者を殺すことよりも、パン小麦粉紅茶を盗む、入植者の庭からジャガイモカブ掘り起こすなど、略奪により食料を得ることを重視しているという報告届いていた。 アーサーロンドン植民地庁長官に、アボリジニ人々が「白人自分たちの国を占領し狩場侵害し自然の恵み貴重な食糧であるカンガルー殺害したとすでに訴えている」と報告しメモの中でアボリジニ人々を「島の離れた場所に、彼らのために厳密に確保し食料衣類供給し保護与える...彼らが平和的に一定の範囲留まることを条件に」定住させることを提案する。さらにアーサータスマニア北東海岸保護区とし「彼らの習慣がより文明的になるまで」そこに隔離するのが望ましいとした長官はこの提案受けて1828年4月19日に「アボリジニー白人居住者から分離する布告」を発表しアボリジニー入植者接触規制制限するために島を2つ分割した北東部は、豊富な食料河川河口、湾、そして温暖な気候のため、多くアボリジニー伝統的に訪れていた地域で、かつ入植者がほとんどいない地域だった。しかし、この布告は、定住地区からアボリジニー追い出すために武力行使することを初めて公式に認めたものであった歴史家・作家のジェームズ・ボイスは「(この布告により)どんなアボリジニーも、政府がわざわざ定義していない印のない国境越えただけで、合法的に殺されるようになった」と指摘している。 1828年4月ロンドン植民地政府関係者宛てた手紙の中で、アーサーはこう認めている。 私たち最初侵略者であることは間違いありません。時折逃げ込んだ囚人の中の自暴自棄人物が、間違いなく原住民最大暴行加えてます。私の義務明らかにその影響取り除くことです。この対策達成するためには、アボリジニー入植地に入ることを完全に禁止する以外に、現実的な方法はないと思われます。..」。」 アーサーは、第40連隊と第57連隊の約300人の部隊辺境定住地区にある14軍事拠点配置し国境警備にあたらせた。この戦術アボリジニー攻撃抑止し、1828年の冬の間、定住地区はほとんど被害を受けることはなかった。ただし、その一方で国境に姿を見せた無害なアボリジニーのうち、オイスターベイの一族16人が、7月にイースタン・ティアの野営地で第40連隊分隊殺されている。

※この「危機の時代(1825~1831年)」の解説は、「ブラック・ウォー」の解説の一部です。
「危機の時代(1825~1831年)」を含む「ブラック・ウォー」の記事については、「ブラック・ウォー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「危機の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「危機の時代」の関連用語

危機の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



危機の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの短い20世紀 (改訂履歴)、冷戦 (改訂履歴)、ブラック・ウォー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS