危機の教訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:53 UTC 版)
マクナマラ国防長官は後に、キューバ危機から二つの教訓を学んだと述べた。1つは「核兵器で武装された国家間の危機管理は本来的に危険かつ困難であり、また不安定である」。2つは「判断の過ち、情報の誤り、誤算のゆえに核武装した大国間の軍事行動の帰結を自信をもって予知することは不可能である」ということであった。 キューバ危機はその後において国際政治に及ぼした影響は大きい。第一はソ連が核ミサイルの増強に走ったことで、米ソ間のミサイルギャップを埋めるべく核ミサイルの開発競争に走り、この結果、米ソ間での核軍備競争となり、1980年代に入ってやがてソ連経済の衰退を招いた。 第二は米ソ両国の核戦争を回避するための道を模索し始めたことで、この危機を教訓として、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして翌年8月に部分的核実験禁止条約が締結されて、やがて危機管理の方法の確立から核不拡散などの共通の利害を共有するとの認識に至り、デタントの流れを形成していった。 第三はこの危機から東西両陣営の内部で同盟国の離反を招いたことで、かねてから「中ソ対立」でソ連と対立していた中華人民共和国は、ソ連の脅威に対抗するためもありやがて核実験を実施して核保有国となる傍ら、ソ連との緊張関係が1980年代に至るまで続いた。また1960年に核保有国となっていたフランスは、アメリカの同盟国に対する姿勢に不信感を持ち、ドゴール大統領は独自の外交を展開する。キューバ危機後米ソ間が次第に好転していくが、反対に中華人民共和国とフランスは部分的核実験禁止条約に反対して、しばらくの間は東西両陣営から距離を取る方針を進めた。また中ソの緊張関係が続く中で、ベトナム戦争の末期にアメリカと中華人民共和国が急接近するなど、キューバ危機の前後に起きた様々な動きの結果、これまでの米ソ二極支配の構造から多極化の構造へと変化していった。
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