対立の激化
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15世紀末頃から佐竹氏と山入氏の中で衝突が繰り返されるようになる。そのなか佐竹氏の義治が没し、その跡を義舜が継いだ。そのわずか4ヶ月後に山入氏、佐竹一族、さらには水戸氏までもが一気に佐竹氏の本城の太田城を攻撃し、義舜は孫根城に逃れた。しかし山入義藤が没したため和議の機運が高まり、岩城氏の斡旋によって実現した和議では氏義は小野崎・江戸氏との関係を絶ち、義舜ならびに岩城氏に同心することを誓ったが、山入氏は太田城を明け渡さないどころか孫根城を攻め、義舜を東金砂山にまで追いつめた。しかし一族の小野崎氏や江戸氏などが義舜に協力したため、山入軍は敗戦した。その後、徐々に態勢を立て直した義舜が太田城奪還に成功し、山入氏義は本拠の国安城に逃れるもそこでも敗れて、一族の小田野義正に捕らわれて、下野国茂木にて、子の義盛とともに斬首された。 これにより、佐竹氏と山入氏の戦いに終止符が打たれた。
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対立の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 00:58 UTC 版)
1828年、イギリスとミャンマーの間で戦争があり、イギリスは勝利してアッサム・ドゥアール地方の交易権を獲得した。この肥沃な地域は紅茶などのプランテーションを通じてイギリスの重要な換金作物の生産地となっていくが、歴史的にこの一帯はブータンの穀物、交易品の重要な供給源であり、ブータンはこの生命線を手放すことはできなかった。ブータンのトンサ・ペンロップはイギリスに対して補償費を支払うことでの交易の維持を求めたが、イギリスは交易品の水準や交換レートを引き下げ、受け取った補償費をインド会社の職員が横領したことから両国ともに債務不履行を理由に不信感を募らせていった。トンサ・ペンロップの干渉はアッサム地方に暴動を招いて同地域から人口を流出させ、反対にイギリスは労働力を補うための住民移住を各地で強行した。 1848年、両国の問題を解決するためイギリスはペンバートン使節団を派遣するが、ペンバートンが交渉相手に選んだのはトンサ・ペンロップではなく、すでに名目上の行政最高位でしかなくなっていたデシであった。当時、トンサ・ペンロップは完全にデシの制御を離れ、他のペンロップたちへの武力闘争を続けていた。そのためペンバートンの要求に対し、デシには実行できる手段がなく、両者の協議は物別れに終わる。この交渉はイギリスに、デシを通じたブータン干渉が実効を伴わないことを確認させた。1851年、イギリスはアッサム地方の完全な領有と、そのためにブータンへの年間10,000ルピーの補償費を支払うことを一方的に宣言する。これにより、両国の関係は悪化の一途を辿った。
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