対立の始まり (1944年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:42 UTC 版)
「ギリシャ内戦」の記事における「対立の始まり (1944年)」の解説
.mw-parser-output .sidebar{width:auto;float:right;clear:right;margin:0.5em 0 1em 1em;background:#f8f9fa;border:1px solid #aaa;padding:0.2em;text-align:center;line-height:1.4em;font-size:88%;border-collapse:collapse;display:table}body.skin-minerva .mw-parser-output .sidebar{display:table!important;float:right!important;margin:0.5em 0 1em 1em!important}.mw-parser-output .sidebar-subgroup{width:100%;margin:0;border-spacing:0}.mw-parser-output .sidebar-left{float:left;clear:left;margin:0.5em 1em 1em 0}.mw-parser-output .sidebar-none{float:none;clear:both;margin:0.5em 1em 1em 0}.mw-parser-output .sidebar-outer-title{padding:0 0.4em 0.2em;font-size:125%;line-height:1.2em;font-weight:bold}.mw-parser-output .sidebar-top-image{padding:0.4em}.mw-parser-output .sidebar-top-caption,.mw-parser-output .sidebar-pretitle-with-top-image,.mw-parser-output .sidebar-caption{padding:0.2em 0.4em 0;line-height:1.2em}.mw-parser-output .sidebar-pretitle{padding:0.4em 0.4em 0;line-height:1.2em}.mw-parser-output .sidebar-title,.mw-parser-output .sidebar-title-with-pretitle{padding:0.2em 0.8em;font-size:145%;line-height:1.2em}.mw-parser-output .sidebar-title-with-pretitle{padding:0 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-image{padding:0.2em 0.4em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-heading{padding:0.1em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-content{padding:0 0.5em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-content-with-subgroup{padding:0.1em 0.4em 0.2em}.mw-parser-output .sidebar-above,.mw-parser-output .sidebar-below{padding:0.3em 0.8em;font-weight:bold}.mw-parser-output .sidebar-collapse .sidebar-above,.mw-parser-output .sidebar-collapse .sidebar-below{border-top:1px solid #aaa;border-bottom:1px solid #aaa}.mw-parser-output .sidebar-navbar{text-align:right;font-size:75%;padding:0 0.4em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-list-title{padding:0 0.4em;text-align:left;font-weight:bold;line-height:1.6em;font-size:105%}.mw-parser-output .sidebar-list-title-c{padding:0 0.4em;text-align:center;margin:0 3.3em}@media(max-width:720px){body.mediawiki .mw-parser-output .sidebar{width:100%!important;clear:both;float:none!important;margin-left:0!important;margin-right:0!important}} ギリシャの歴史 エーゲ文明ヘラディック文明 キクラデス文明 ミノア文明 ミケーネ文明 古代ギリシア暗黒時代 幾何学文様期 アルカイック期 古典期 ヘレニズム ローマ帝国支配下のギリシャ ビザンツ帝国 分裂時代 トルコクラティア(オスマン帝国支配下のギリシャ) 近代ギリシャギリシャ独立戦争 (ギリシャ第一共和政) ギリシャ王国 国家分裂 (ギリシャ王国) ギリシャ第二共和政 八月四日体制 第二次世界大戦時のギリシャ ギリシャ内戦 ギリシャ軍事政権 ギリシャ第三共和政 その他ギリシア美術 表 話 編 歴 1944年の後半になり、ソ連軍がルーマニア・ユーゴスラビアへと進撃を続けるにつれ、退路を断たれるドイツ軍がギリシャを撤退することは明らかになった。パパンドレウに率いられた亡命政府はイタリアのカセルタに移動し、ギリシャ解放を待ち構えていた。1944年9月にカセルタで結ばれた合意書では、全てのレジスタンス組織がイギリス軍の司令官ロナルド・スコービー将軍の指揮下に入るように求められていた。 イギリス軍は10月にギリシャに上陸した。ドイツ軍は既に総撤退に移っており、戦闘は小規模だった。この時ギリシャ人民解放軍傘下のゲリラは50,000人に及び、ドイツ軍が遺棄した装備を得てさらに武装を整えていた。10月13日イギリス軍はアテネに入城し、数日後にはパパンドレウとその大臣も到着した。パパンドレウは王制の存続を国民投票で決定するつもりであったため、国王はカイロに残留した。 この時点でギリシャ人民解放軍がギリシャ全土を支配下に置こうと思えば、十分にそれは可能であったが、ギリシャ人民解放軍はそうした行動に出なかった。ギリシャ共産党の指導者はソ連の影響下にあり、戦後にドイツ全土をソ連の影響下に置くというスターリンの戦後戦略を妨害することのないよう命令されていた。モスクワで開かれた会議において、スターリンとチャーチルは、ギリシャをイギリスの影響下に置くことに同意していた(パーセンテージ協定)。ギリシャ共産党の指導者はこれを知っていたが、ギリシャ人民解放軍と下部のコミュニストには知らされていなかった。このことは、後に民族解放戦線とギリシャ人民解放軍が争う原因となった。 スターリンの指導のもと、ギリシャ共産党はパパンドレウ政権との対決を避けるようになった。ギリシャ人民解放軍の多くのメンバーはイギリス軍を解放軍と見なしていたが、ギリシャ共産党の指導者であるアンドレアス・ツジマス(英語版)やアリス・ヴェロウキオティス(英語版)はイギリス軍を信頼してはいなかった。ツジマスはユーゴスラビア共産党の指導者チトーと連絡をつけ、イギリスとの共同行動を拒否するようになった。 レジスタンスの武装解除は、パパンドレウ政権と政権に参加していた民族解放戦線メンバーとの間の火種であった。英国大使のレジナルド・リーパー(英語版)卿に助言を受け、パパンドレウは全ての勢力の武装放棄と、政府の管理下での新国軍の設立を決定した。これが実現するとギリシャ人民解放軍は右翼からの攻撃に反撃できなくなると考えた民族解放戦線は代替案を提案したが、パパンドレウはこれを拒否し、政権の民族解放戦線メンバーは辞職した。12月1日スコービーはギリシャ人民解放軍の解体を要求する命令書にサインした。ギリシャ人民解放軍の軍事力はギリシャ共産党の影響力の源であり、ギリシャ共産党の指導者シアントスはこの命令に従わないことを決定した。 12月3日、アテネ中央のシンタグマ広場における民族解放戦線のデモに警察が発砲し、ギリシャ人民解放軍と政府軍およびイギリス軍の間に戦闘が始まった(十二月事件(英語版))。この戦闘では、小火器だけでなく火砲や航空機までもが使用された。12月4日、パパンドレウは自身の辞任を決めたが、イギリス大使館は留任を強く要請した。12月12日になり、ギリシャ人民解放軍はアテネとピレウスの大部分を支配下に置いた。イギリスはイタリアから第4師団を呼び寄せ、部隊を増強した。 戦闘はひと月余り続き、イギリス軍が次第にギリシャ人民解放軍を押し戻すようになった。不思議なことに、アテネ周辺以外ではギリシャ人民解放軍と政府・イギリス側との間に争いは生じなかった。ギリシャ人民解放軍はクーデターを計画しておらず、戦闘が偶然始まったことは明らかだった。 東西の戦線では未だドイツ軍との戦闘が続いているにも関わらず発生したイギリス軍と対独レジスタンス間の争いは、チャーチルの連立政権にとって大きな打撃となり、新聞や下院でもチャーチルの対応に対して批判が巻き起こった。チャーチルは戦闘を終結させるため12月24日にアテネに到着し、ソ連代表者立ち会いのもとで会議を開いたが、民族解放戦線及びギリシャ人民解放軍側の要求が大きく。交渉は決裂した。 1月初めには、ギリシャ人民解放軍はアテネから撤退した。チャーチルはパパンドレウを辞職させ、反コミュニストのニコラオス・プラスティラス(英語版)将軍を首相に据えた。1945年1月15日スコービーは戦闘を停止し、ギリシャ人民解放軍側はパトラおよびテッサロニキからの撤退、ペロポネソス半島における武装解除に同意した。これはギリシャ人民解放軍にとり苦渋の決断だったが、ギリシャ共産党はその戦略を練り直していた。
※この「対立の始まり (1944年)」の解説は、「ギリシャ内戦」の解説の一部です。
「対立の始まり (1944年)」を含む「ギリシャ内戦」の記事については、「ギリシャ内戦」の概要を参照ください。
対立の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:19 UTC 版)
1956年2月ソ連共産党第20回党大会で党中央委員会第一書記ニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行い、平和共存路線を採択し、東ヨーロッパ各地で動揺が広がる。これを契機に中国とソ連の間でイデオロギー論争が生じる。 1956年10月ハンガリー動乱。 1957年10月モスクワでロシア革命40周年記念式典が開催され、中国共産党中央委員会主席毛沢東が2度目となるソ連訪問を行う。モスクワ大学で講演し、「東風は西風を圧す」を語り暗にフルシチョフの平和共存政策を批判した。 1958年7月フルシチョフが中国を訪問し、毛沢東との会談で中ソ共同艦隊等の提案をするも、毛はこれを拒否した。 1959年6月ソ連が原爆供与に関する中ソ間の国防用新技術協定を破棄。 1959年10月フルシチョフが中国を訪問し、毛沢東と会談するも意見不一致の為共同声明出ず。 1960年4月人民日報及び紅旗が共同論説「レーニン主義万歳」を発表。中ソ論争が表面化し、同年6月にソ連は中国に派遣していた技術専門家を引き揚げる。 1960年11月モスクワで81カ国共産党会議を開催し、中国とソ連の間で意見を調整し、妥協的なモスクワ宣言を発表した。 1961年7月朝鮮民主主義人民共和国が中国と中朝友好協力相互援助条約、ソ連とソ朝友好協力相互援助条約を締結。 1961年10月フルシチョフはソ連共産党第22回大会においてアルバニアを非難した。これに対し、中国国務院総理周恩来がアルバニアを擁護してフルシチョフを批判し、中途で帰国した。 1962年10月中印国境紛争が発生。この際ソ連がインドに武器援助を行う。 1962年平和共存に関する中ソ論争が発生。キューバ危機に際して、中国はソ連を「冒険主義」「敗北主義」「大国主義」として非難。この頃中ソ対立は西側にも公然のものとなった。 1963年7月ソ連と中国の共産党会談が成果無いまま終了、対立は一層拡大(第三国からは「聾者同士の対談」と揶揄された)する。会談以降、毛沢東はフルシチョフを『似非共産主義者』と罵倒し、修正主義に対しては終わりなき闘争を表明。 1964年10月中国が初の原爆実験に成功。同月にフルシチョフが失脚。中国はこれを歓迎し、11月に周恩来を団長とする大型代表団をモスクワに送り、レオニード・ブレジネフ、アレクセイ・コスイギンらソ連指導部と会談するも関係改善ならず、以降対立は深刻化し国家関係もほとんど断絶状態になる。 1965年アメリカ軍がベトナム戦争に介入。 1966年中国は文化大革命の時代になる。 同年8月中国がソ連を「社会帝国主義」と批判する。 同年10月7日ソ連政府は中国の在ソ全留学生の休学を決定し、留学生らに対して同年10月中にソ連を退去するよう命令した。 1967年1月ヨーロッパから中国へ帰国途中の留学生が、赤の広場に向かってレーニン廟に献花し、黙祷の後に『毛沢東語録』を朗読したが、ソ連当局に阻止された。 同年2月ソ連当局がモスクワにある中国大使館を襲撃。文化大革命の写真などが展示されているガラスケースを破壊し、大使館員に暴行を加えたとされる。 1968年8月チェコスロバキアでプラハの春。ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入し、指導者であるアレクサンデル・ドプチェク等を逮捕するなどして鎮圧した。中国は「ソ連の裏切り者たちは強盗集団になりはてた」とソ連を非難。
※この「対立の始まり」の解説は、「中ソ対立」の解説の一部です。
「対立の始まり」を含む「中ソ対立」の記事については、「中ソ対立」の概要を参照ください。
- 対立の始まりのページへのリンク