箱根山戦争と事業拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
「箱根登山鉄道」の記事における「箱根山戦争と事業拡大」の解説
「箱根山戦争」も参照 これより少し遡る1947年9月、箱根で路線バスと専用自動車道を運営していた駿豆鉄道では、小田原と小涌谷を結ぶ区間に路線バスの運行免許申請を行った。傘下にあった大雄山鉄道(当時)との一貫輸送を図ったものであったが、当時まだ東急の傘下だった箱根登山鉄道は、自社防衛の見地から反対の立場をとった。しかし、当時の箱根登山鉄道はケーブルカーの運行再開に全力を挙げており、ただちに自社バスの増強を図ることは難しかった上、地元からも「独占はよくない」という声も上がっていたこともあり、1949年12月には駿豆鉄道の路線バス運行については条件付で認可された。これに対応して、小田急の傘下に入った直後の箱根登山鉄道では早雲山から大涌谷を経由して湖尻に至る路線バス運行の免許申請を行なったが、これは逆に駿豆鉄道から反対を受けた。最終的には、1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上で、小田原へは駿豆鉄道バスが乗り入れ、代わりに登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった。 箱根登山鉄道はこれに続いて、1950年3月に芦ノ湖への湖上交通に着手するために、箱根町や仙石原で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者と共同で船舶会社(箱根観光船)を設立した。当初の箱根観光船は小型遊覧船のみを保有する小規模な事業者であったが、1954年には芦ノ湖一周航路の免許を取得、さらに1956年には大型の遊覧船を就航させた。駿豆鉄道側ではこれに対して、1956年3月に「有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄する」と通告し、契約満了後の同年7月以降には有料道路に遮断機を設けて登山バスの通行を阻止した。これは箱根観光船の大型船導入に対する報復で、後に箱根山戦争として広く知られ、獅子文六の小説「箱根山」の題材にもなった西武グループと小田急グループの対立の始まりでもあった。 その後、互いに訴訟を起こして争う一方で、小田急側では1959年に箱根ロープウェイを開通させたことにより、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになった。また、1961年に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放したことで、抗争は事実上終結した。数多くあった訴訟案件の決着がついた1968年には西武と小田急のトップが友好的な協定に調印したことから、以後両社は共存してゆくことになる。 これらの紛争の前後にも、事業展開は進められた。自動車事業においては、1950年には貸切バス事業を再開、同年には東京から箱根や熱海へ直通する路線バスの運行を開始したほか、1952年には山中湖への路線が開設され、1958年には定期観光バスの運行を開始している。また、関連事業においては1957年から強羅公園の再整備に着手し、1958年には強羅地区での温泉造成工事も開始、1959年9月には箱根登山デパートが完成し営業を開始した。戦後中断されていた宅地分譲も1964年から再開され、同年12月には「強羅国際スケートリンク」を開業した。
※この「箱根山戦争と事業拡大」の解説は、「箱根登山鉄道」の解説の一部です。
「箱根山戦争と事業拡大」を含む「箱根登山鉄道」の記事については、「箱根登山鉄道」の概要を参照ください。
箱根山戦争と事業拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:43 UTC 版)
「箱根登山バス」の記事における「箱根山戦争と事業拡大」の解説
大正後期以降、芦ノ湖近辺では箱根土地(当時)が別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっており、開発に欠かせない交通機関の整備についても西武グループの手で熱海峠と箱根峠の間と、小涌谷から湖尻を経由して元箱根に至る有料道路を運営し、駿豆鉄道(当時)の路線バスが運行されていた。 1947年9月、駿豆鉄道では、小田原と小涌谷を結ぶ区間に路線バスの運行免許申請を行った。傘下にあった大雄山鉄道(当時)との一貫輸送を図ったものであったが、当時まだ東急の傘下だった登山バスは、自社防衛の見地から反対の立場をとった。しかし、当時の登山バスではただちに増強を図ることは難しかった上、地元からも「独占はよくない」という声も上がっていたこともあり、1949年12月には駿豆鉄道の路線バス運行については条件付で認可された。これに対応して、小田急の傘下に入った直後の登山バスでは早雲山から大涌谷を経由して湖尻に至る路線バス運行の免許申請を行なったが、これは逆に駿豆鉄道から反対を受けた。最終的には、1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上で、小田原へは駿豆鉄道バスが乗り入れ、代わりに登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった。 詳細は「箱根山戦争#対立の序盤」を参照 登山バスはこれに続いて、1950年3月に芦ノ湖への湖上交通に着手するために、箱根町や仙石原で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者と共同で船舶会社(箱根観光船)を設立した。当初の箱根観光船は小型遊覧船のみを保有する小規模な事業者であったが、1954年には芦ノ湖一周航路の免許を取得、さらに1956年には大型の遊覧船を就航させた。駿豆鉄道側ではこれに対して、1956年3月に「有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄する」と通告し、契約満了後の同年7月以降には有料道路に遮断機を設けて登山バスの通行を阻止した。これは箱根観光船の大型船導入に対する報復で、後に箱根山戦争として広く知られ、獅子文六の小説『箱根山』の題材にもなった西武グループと小田急グループの対立の始まりでもあった。 詳細は「箱根山戦争#箱根観光船の進出」および「芦ノ湖遊覧船#歴史」を参照 その後、互いに訴訟を起こして争う一方で、小田急側では1959年に箱根ロープウェイを開通させたことにより、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになった。また、1961年に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放したことで、抗争は事実上終結した。数多くあった訴訟案件の決着がついた1968年には西武と小田急のトップが友好的な協定に調印したことから、以後両社は共存してゆくことになる。しかし、既に独自の周遊ルートを築いていたこともあり、小田原駅での観光客の呼び込みや箱根地区でのターミナルの違いなど、競合の構図は残った。 詳細は「箱根山戦争#終結」を参照 これらの紛争の間にも、事業区域の拡大は進められた。1950年代には東海道本線と並行する路線が新設されたほか、1958年には定期観光バスの運行を開始している。また、1960年代には三島・沼津地区において東海自動車(現・東海バス)・富士山麓電気鉄道改め富士急行(現・富士急シティバス)との免許争奪合戦も行われた。 貸切バス事業においても拡大傾向は続き、1963年には名古屋にも営業所を設置した上で、1968年には箱根登山観光バスとして独立させている。
※この「箱根山戦争と事業拡大」の解説は、「箱根登山バス」の解説の一部です。
「箱根山戦争と事業拡大」を含む「箱根登山バス」の記事については、「箱根登山バス」の概要を参照ください。
- 箱根山戦争と事業拡大のページへのリンク