箱根観光船の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 13:27 UTC 版)
一方、芦ノ湖畔の箱根町では、戦時中の燃料統制に伴って、駿豆鉄道の遊覧船が寄港しなくなっていた 上、熱海と元箱根を結んでいた駿豆鉄道バスも「停留所に乗客がいなかった」という理由でしばしば箱根町を素通りしていた。 もともと堤康次郎は、初めは箱根町に着目していた。しかし、この頃既に土地を買い占める堤康次郎の噂が広まっており、「堤康次郎が買いに来る前に買い占めておこう」と考える地元の業者も出現していた。実際に堤康次郎が土地を購入しようとした頃には、箱根町の土地のほとんどが他の業者によって買い占められており、堤康次郎はある程度の土地を取得したものの「箱根町はやめて元箱根の土地を買うことにしよう」と、その拠点を元箱根に移していた。 結果的に、箱根町は堤康次郎から見放された格好となっていたのである。 こうした状況から、箱根町で旅館を経営していた有力者を中心として、仙石原の有志と共同で新たに遊覧船を運航する船舶会社の設立を計画した。箱根登山鉄道はこれに着目し、小田急側の資本援助によって、1950年3月10日に箱根観光船が設立された。 それまで湖上交通を独占していた駿豆鉄道はこれに反対の立場をとった。海上運送法の適用下では免許を受けることが困難とみられた ことから、箱根観光船では20t未満の小型船舶による運航を目論んだ。この当時は、20t未満の小型船舶であれば海上運送法の適用外となったからである。関東海運局では駿豆鉄道との間で営業協定を結ぶことを要求し、駿豆鉄道も当初は反対したものの、安全協定として承諾した。 こうして、1950年8月1日より、箱根観光船によって湖尻桃源台と箱根町を結ぶ航路の運航が開始され、駿豆鉄道による湖上交通の独占は破られることになった。
※この「箱根観光船の進出」の解説は、「箱根山戦争」の解説の一部です。
「箱根観光船の進出」を含む「箱根山戦争」の記事については、「箱根山戦争」の概要を参照ください。
- 箱根観光船の進出のページへのリンク