幾何学文様期
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一般に、ギリシア彫刻の最初期の具現は木彫りの偶像だと考えられており、パウサニアスにより最初は「xoana」と記述された。そうした木像はほとんど現存しておらず、恐らく何百年間にわたって崇拝対象だったのだろうが、その記述も曖昧である。収集されることになったギリシア彫刻の最初の欠片は、恐らくレフカンディ(英語版)のケンタウロス(Lefkandi Centaur)で、これはエヴィア島で発見された紀元前約920年とされるテラコッタの彫像である。この彫像はパーツに分解され、2つの墓に切り分けて埋葬されていた。このケンタウルスは膝の上に意図的な印があり、この彫像は多分ヘラクレスの矢で負傷して膝立ちとなっているケイローンの姿を描いたものではないか、と研究者たちは主張した。もしそうなら、これはギリシア彫刻の歴史において知られている神話の最初期の描写であろう。 幾何学文様期(紀元前900年頃から同700年頃)の形態は主にテラコッタの人物像、ブロンズ像、象牙像だった。ブロンズは主に三本足の大釜(tripod cauldrons)と自立した人物像である。こうしたブロンズ像は恐らくシリアから導入されたロストワックス技術を用いて作られたもので、ヘレニズム文明期においてオリンピア、デロス島、デルポイの全ギリシア聖域に残されていたほぼ全ての奉納品である(とはいえ、アテネ、アルゴス、スパルタからの発見により地域スタイルが分かると、他の場所で製造されていたかもしれない)。 この時代の典型的な作品には、カルディツァの戦士(Karditsa warrior, 12831)や小型の騎馬像(例えば、Equestrian statue, 21.88.24)が多く含まれる。このブロンズ作品のレパートリーは立っている男性や馬に限られているわけではなく、当時の花瓶の絵には、牡鹿、鳥、カブトムシ、野ウサギ、グリフォン、ライオンのイメージも描かれている。紀元前7世紀初頭のテーバイにてマンティクロスのアポローン(Mantiklos "Apollo", 03.997)が出現するまで、初期から中間の幾何学文様期彫刻には碑文がない。その全身像は、疑似ダイダロス様式(pseudo-daedalic form)の立っている男性で、その下に碑文 "Μαντικλος μ' ανεθε̅κε ϝεκαβολο̅ι αργυροτοχσο̅ι τας {δ}δε-κατας· τυ δε Φοιβε διδοι χαριϝετταν αμοιϝ[αν]"のヘクサメトロスが書かれている。ラテン語文章は"Mantiklos manetheke wekaboloi argurotoxsoi tas dekatas; to de Foibe didoi xariwettan amoiw [an]"と読めて、抄訳すると「マンティクロスは銀の弓のアポローンに少しばかりの寄付として自らを捧げました。あなたは喜んでお返しを何か施してくれますか、ポイボス(アポローン)」となる。この碑文はアポローン彫像の宣誓であり、その後に恩返しの要請がある。自らの目的を記録するという斬新さとは別に、この彫刻は、より短い三角形の顔とわずかに前に出した左足に見られるように、東洋のブロンズ像の様式に適合している。これはたまに、紀元前7世紀の表現の自由がより広がる予兆だと見なされており、そのため、マンティクロスの人物像は原始ダイダロス様式(proto-Daedalic)として言及されることがある。
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幾何学文様期
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「暗黒時代 (古代ギリシア)」の記事における「幾何学文様期」の解説
「幾何学様式」も参照 暗黒時代の時代観はアテナイの墓域であるケラメイコスでの発見を中心に構築されており、これに他の場所を当てはめることにより構築されている。しかし、アッティカにおける文化変化はこれに必ずしも一致しない。 アッティカは亜ミケーネ文化がミケーネ文化と平行しており、土器の形状自体はミケーネ土器に遡る事ができる。しかし、その文様は幾何学的なものと化しており、この亜ミケーネ文化が原幾何学文様期へと受け継がれる。また、それまで葬制は土葬であったが、原幾何学文様期になると火葬した上でアンフォラ(壺)に収められた上で埋葬されるようになった。また、アンフォラは男性の場合は肩部に縦の取っ手が付いており、女性の場合は腹部に横向きの取っ手が付くという違いが見られる。 この幾何学文様期はコールドストリームの主張する編年体によれば初期幾何学文様期(初期、中期、後期)、初期幾何学文様期(前期、後期)、中期幾何学文様期(前期、後期)、後期幾何学文様期(前期、後期)に分けられているが、これは積極的根拠があるわけではなく、アッティカにおける土器の様式の変化に伴うものであって絶対年代の幅を表しているものではないため、他の地域ではこの文化層が発見されないことがある。また、幾何学文様期の文化層が発見されるのかアッティカを含めてドーリア人の南下ルートから離れており、幾何学文様はドーリア人らが持ち込んだものではなく何らかの社会構造変化に伴い生まれたものと推測されている。 そのため、ギリシャ各地において文化的差異が見受けられエウボイア島では懸垂同心円文によって彩られた杯が発見されており、これと同じ形の杯がシリア、キプロスなどでも集中的に発見されている。そしてエーゲ海のキクラデス諸島のナクソス島、テラ(サントリーニ)島でも独自の土器が見受けられ、ミコノス島南西にあるレーネイア島 (en) で発見された遺物はデロス島が初期鉄器時代末までに重要な聖地となっていたことが想像されている。 中期幾何学文様期になるとミケーネ文化崩壊以後、停滞していた中東方面との交流が復活したと考えられており、ケラメイコスの墓に副葬されていたフェニキア製のボウルが発見されている。また、アテネのアレオパゴス (en) でも豊かな副葬品が発見されており、アテネが経済的に発展していたことが伺え、巨大なクラテール形の土器が墓標として使用されるようになった。 しかしクレタ島では依然としてミノア文化時代からの伝統が続いており、複葬が行なわれ土器もミノア時代からの伝統が受け継がれていた。そしてアッティカが中期幾何学文様期に移ると『クレタ原幾何学文様B』と呼ばれる独特の様式が生まれている。この土器はキプロス、シリアに由来しているとされており、東地中海で交流が行われていた事が伺える。 後期幾何学文様期に移行するとともに墓標に土器を使用することが隆盛すると土器の文様にも人物像などが描かれるようになった。アテネ市外のディピュロンでは豪勢な土器が墓標として用いられており、その土器には様々な文様が描かれるようになった。そして、中期幾何学文様期より再開されていたギリシャ人の海外進出が活発化しておりシチリア島でも後期幾何学文様期の土器が発見されている。 ただし、この亜ミケーネ文化、原幾何学文様期、初期・中期・後期それぞれの幾何学文様期はアッティカにおける土器様式の変化を便宜的に分けているだけであり、これが確定しているわけではない。
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