幾何学文様期とは? わかりやすく解説

幾何学文様期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:54 UTC 版)

古代ギリシアの彫刻」の記事における「幾何学文様期」の解説

一般にギリシア彫刻最初期具現木彫り偶像だと考えられており、パウサニアスにより最初は「xoana」と記述された。そうした木像はほとんど現存しておらず、恐らく何百年間にわたって崇拝対象だったのだろうが、その記述曖昧である。収集されることになったギリシア彫刻最初欠片は、恐らくレフカンディ(英語版)のケンタウロス(Lefkandi Centaur)で、これはエヴィア島発見され紀元前920年とされるテラコッタ彫像である。この彫像パーツ分解され2つの墓に切り分け埋葬されていた。このケンタウルスは膝の上意図的な印があり、この彫像は多分ヘラクレスの矢で負傷して膝立ちとなっているケイローンの姿を描いたものではないか、と研究者たち主張したもしそうなら、これはギリシア彫刻歴史において知られている神話最初期描写であろう。 幾何学文様期(紀元前900年頃から同700年頃)の形態は主にテラコッタ人物像ブロンズ像象牙像だった。ブロンズは主に三本足大釜tripod cauldrons)と自立した人物像である。こうしたブロンズ像は恐らくシリアから導入されロストワックス技術用いて作られたもので、ヘレニズム文明期においてオリンピアデロス島デルポイの全ギリシア聖域残されていたほぼ全ての奉納品である(とはいえアテネアルゴススパルタからの発見により地域スタイル分かると、他の場所製造されていたかもしれない)。 この時代典型的な作品には、カルディツァ戦士Karditsa warrior, 12831)や小型騎馬像例えば、Equestrian statue, 21.88.24)が多く含まれる。このブロンズ作品レパートリー立っている男性や馬に限られているわけではなく当時花瓶の絵には、牡鹿カブトムシ野ウサギグリフォンライオンイメージ描かれている。紀元前7世紀初頭テーバイにてマンティクロスのアポローン(Mantiklos "Apollo", 03.997)が出現するまで、初期から中間の幾何学文様期彫刻には碑文がない。その全身像は、疑似ダイダロス様式(pseudo-daedalic form)の立っている男性で、その下に碑文 "Μαντικλος μ' ανεθε̅κε ϝεκαβολο̅ι αργυροτοχσο̅ι τας {δ}δε-κατας· τυ δε Φοιβε διδοι χαριϝετταν αμοιϝ[αν]"のヘクサメトロス書かれているラテン語文章は"Mantiklos manetheke wekaboloi argurotoxsoi tas dekatas; to de Foibe didoi xariwettan amoiw [an]"と読めて抄訳すると「マンティクロスは銀の弓のアポローンに少しばかり寄付として自らを捧げましたあなたは喜んでお返しを何か施してくれますか、ポイボスアポローン)」となる。この碑文アポローン彫像宣誓であり、その後恩返し要請がある。自らの目的記録するという斬新さとは別に、この彫刻は、より短い三角形の顔とわずかに前に出した左足見られるように、東洋ブロンズ像様式適合している。これはたまに、紀元前7世紀表現の自由がより広がる予兆だと見なされており、そのため、マンティクロスの人物像原始ダイダロス様式(proto-Daedalic)として言及されることがある

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幾何学文様期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:28 UTC 版)

暗黒時代 (古代ギリシア)」の記事における「幾何学文様期」の解説

幾何学様式」も参照 暗黒時代時代観はアテナイ墓域であるケラメイコスでの発見中心に構築されており、これに他の場所当てはめることにより構築されている。しかし、アッティカにおける文化変化はこれに必ずしも一致しないアッティカは亜ミケーネ文化ミケーネ文化平行しており、土器形状自体ミケーネ土器遡る事ができる。しかし、その文様幾何学的なものと化しており、この亜ミケーネ文化が原幾何学文様期へと受け継がれるまた、それまで葬制土葬であったが、原幾何学文様期になると火葬した上でアンフォラ(壺)に収められ上で埋葬されるようになったまた、アンフォラ男性の場合肩部に縦の取っ手付いており、女性の場合腹部横向き取っ手が付くという違い見られる。 この幾何学文様期はコールドストリームの主張する編年体によれば初期幾何学文様期(初期中期後期)、初期幾何学文様期(前期後期)、中期幾何学文様期(前期後期)、後期幾何学文様期(前期後期)に分けられているが、これは積極根拠があるわけではなくアッティカにおける土器様式変化に伴うものであって絶対年代の幅を表しているものではないため、他の地域ではこの文化層発見されないことがあるまた、幾何学文様期の文化層発見されるのかアッティカ含めてドーリア人南下ルートか離れており、幾何学文様ドーリア人らが持ち込んだものではなく何らかの社会構造変化に伴い生まれたものと推測されている。 そのため、ギリシャ各地において文化的差異見受けられエウボイア島では懸垂同心円文によって彩られた杯が発見されており、これと同じ形の杯がシリアキプロスなどでも集中的に発見されている。そしてエーゲ海キクラデス諸島ナクソス島テラサントリーニ)島でも独自の土器見受けられミコノス島南西にあるレーネイア島 (en) で発見され遺物デロス島初期鉄器時代末までに重要な聖地となっていたことが想像されている。 中期幾何学文様期になるとミケーネ文化崩壊以後停滞していた中東方面との交流復活した考えられており、ケラメイコスの墓に副葬されていたフェニキア製のボウル発見されている。また、アテネアレオパゴス (en) でも豊かな副葬品発見されており、アテネ経済的に発展していたことが伺え巨大なクラテール形の土器墓標として使用されるようになった。 しかしクレタ島では依然としてミノア文化時代からの伝統続いており、複葬が行なわれ土器ミノア時代からの伝統受け継がれていた。そしてアッティカ中期幾何学文様期に移ると『クレタ幾何学文様B』と呼ばれる独特の様式生まれている。この土器キプロスシリア由来しているとされており、東地中海交流が行われていた事が伺える。 後期幾何学文様期に移行するとともに墓標土器使用することが隆盛すると土器文様にも人物像など描かれるようになったアテネ市外のディピュロンでは豪勢な土器墓標として用いられており、その土器には様々な文様描かれるようになった。そして、中期幾何学文様期より再開されていたギリシャ人海外進出活発化しておりシチリア島でも後期幾何学文様期の土器発見されている。 ただし、この亜ミケーネ文化、原幾何学文様期、初期・中期後期それぞれの幾何学文様期はアッティカにおける土器様式変化便宜的に分けているだけであり、これが確定しているわけではない

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