人物像など
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藤森照信は自著で山本拙郎のことを「日本最初の住宅作家」「住宅を好んで志した最初のアーキテクト」としている。キリスト教の環境に育った影響からか、明治式の立身出世的人生観から切れていたとみられる。性格もやさしく温厚で、その作品も温厚、素直な作風として知られる。あめりか屋の啓蒙面として健筆をふるった『住宅』誌上の文章も、大変ロマンティックなものであった。 雑誌で住宅設計競技を企画した。吉村順三は中学生当時、住宅の設計競技に応募し入選を果たした経験から山本を「私が最初に好きになった建築家」と語っている。 従弟池田武邦も建築家になった。 客人を迎えるため玄関のドアは内開き、と啓蒙していた。 日本女子大学などで講師歴任。
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人物像など
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森田必勝の外見は、頭の鉢が大きく、固太りの体格で、髪はスポーツマン風に短く刈っていた。眉は濃い方で、目は一重まぶたで童顔。鼻梁と唇の肉は厚めだが、笑うと歯並びの良い真っ白な歯が人目を奪う容姿であった。必勝が来ると一気にその周囲がぱあっと明るくなるような天真爛漫な雰囲気を漂わせていたという。 中・高校の授業では日本史を特に好み、海星学園のリベロ校長に、日本の伝統や、日本史の素晴らしさをよく語っていたという。 少年らしい純粋な夢を求めるロマンチスト。意志が強く、男性的。しかし、乱暴ではなく、思いやりとやさしさを持つほんとの男らしさ。彼は何ひとつ欠点のない人物でしたね。私は、彼が卒業するとき、彼が当校を代表する立派な人物になると確信していました。 — 海星学園・リベロ校長 大学時代は、学生服に黒い革靴か、ジャンパーかコートに下駄ばき、といった服装が多く、大学や下宿近くの商店街の人たちにも必ず、「おはよう」と声を掛ける人懐っこい性格であった。貧乏学生でいつも金に困っていたが靴磨きは大好きで、大学生門前の靴磨きのおじさんと顔馴染みになるほど通っていた時期があったという。 夏にジョギングして汗だくになると、公道で行水をし、瓶のコカ・コーラを美味しそうにラッパ飲みしていたという。そして近所の子供たちが珍しいものを見るように集まって来ると、必勝は子供と一緒になって無邪気に遊び、その姿は天真爛漫そのものだったと、早大の1年先輩の宮崎正弘は述懐している。早大国防部の北恵庭駐屯地での体験入隊の時も、休憩中に北海道の原野をうさぎを追って駆け回る姿があどけない子供のようだったという。 必勝と一緒に運送アルバイトをしたことのある早大国防部の大石晃嗣は、静岡県清水市まで長距離トラックで行った時、箱根の難所を緊張して運転する大石の横でグーグーと寝始める必勝に、「おい森田、こわくないのか?」と言うと、「こんな所で死んだら上等だよ」と豪快に笑い、未明に三保の松原で砂地にはまって立ち往生してしまった時も、「かまやしねぇよ大石君、朝になったら車が来るから、それまで寝ようぜ」と人を食った態度だったという。 日学同を脱退し、新宿区十二社の小林荘の下宿に住んでいた頃、よく必勝と行動を共にした野田隆史は、デパートに買い物に出かけてエレベーターに乗ると、必勝がエレベーターガールに「お姉さんは、どこの生まれ?」「ぼくは早稲田大学の学生で、名前は森田必勝といいます」と人懐っこく話しかけ、その女性がくすくすと笑ってしまっていたという。新宿記念公園のベンチに座っていて、2人組の女の子から声をかけられた時には、「ぼくら大学生だよ、それでさあ」とちょっと気取って東京弁を使い、お国訛りを隠していたという。 必勝は人の悪口や愚痴を一切言わず、些事にはこだわらない性格で、田舎出身の楯の会会員が待ち合わせ場所に辿り着けずに会えなくなった時も、全く怒らずに次の約束場所に笑顔で現われ、一言も小言を発しなかったという。 短髪なので風呂の時もシャンプーを使わず、「シャンプーなんて要らない。顔を洗っていてその石鹸を上に持ってくれば髪は洗える」と笑っていたという。 歯を磨くことが好きで、小林荘の下宿に来たばかりの時は、自分の歯ブラシがなくても、同居人の田中健一の歯ブラシを一度歯磨き粉をつけて洗ってから、それを借りて自慢の美しい歯をいつも丹念に磨いていたという。 決起メンバーの小川正洋は必勝について、「自分自身に非常にきびしい人でした。赤ん坊から年寄りまでだれとでも仲よくなる人、包容力のある親分肌の人でした」と語っている。 林房雄は、必勝の印象について「実に明るい笑顔を持った、礼儀正しい好青年で、寡黙ではあったが、内に秘めた何物かが、澄んだ彼の瞳から輝き出ていた。初対面の時、彼と何を話したのかは覚えてないが彼の無邪気で、しかも落着いた物腰、時折り真白い歯をみせて人なつっこく笑った顔のすがすがしさが印象に残っている」と述懐している。 学生達から主に私の著作への質問があり、明治維新のことなどを話し合った。森田青年は、真剣な眼つきで、聞き耳を立てていた。(中略)他の学生と違って森田君はほとんど質問もせず、何か思いつめた表情で一点を凝視していた。しかし、休憩時間には、一番はしゃいで大声で笑っていたのも森田青年であった。(中略)「君はこんど隊長になったそうだね」と私が言うと、「いやあ……」と頭をかいて、はずかしそうに笑った。(中略)君の童顔と微笑と澄んだ瞳を、すでに老齢の私も決して忘れない。 — 林房雄「森田必勝君の追想」 三島由紀夫が21歳の頃、短編を掲載した川端康成主宰の雑誌『人間』の担当編集者であった木村徳三は、三島自決後、森田必勝の写真を見た時、若き日の三島が惹かれていたゲイバー「ブランスウィック」のボーイ(三島の長編『禁色』の主人公・南悠一のモデル)の面影と似ていて驚いたとしている。 三島事件の後、三島の体内から必勝の精液が出てきたという「風評」を吹聴する者がいるが、そのような事実関係を示すものは全くなく、検死解剖を行なった慶応義塾大学病院法医学解剖室・斎藤銀次郎教授の解剖所見にも、そのような記載はない。 なお、人が首を吊ったりすると排便してしまうことから、割腹の時も同様のことがあり得ると想定した三島が、尻に詰める脱脂綿を事前に用意していたことは事件の裁判で明らかになっている。決起の準備に用意した品物の中に脱脂綿があるのを見た必勝がびっくりして、「何に使うのですか」と質問すると、「尻に詰めるんだよ」と三島が笑って説明していたという。 三島と必勝に空手を教えていた中山正敏は、「森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た」と述懐している。 空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった。 — 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」 また必勝の介錯については以下のような見解を示している。 有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。 — 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」 三島のかつての担当編集者で、必勝と面識があった堤堯によると、1969年(昭和44年)頃に堤が、「森田さん、貴方、エルンスト・レームになるんじゃないの?」と、アドルフ・ヒトラーが政権を獲るまでのナチスの突撃隊隊長・レーム(のちに御用済みになって暗殺された人物)に喩えて意地悪い質問をすると、必勝は、「僕は絶対に三島先生を逃がしません」と、顔をキッと改めて答えたという。必勝が去った後、一緒にいた堤の友人は、「三島も大変だなあ、今度という今度は逃げられない」と言ったとされる。 楯の会5期生の村田春樹は、会の活動を通じて三島や班長らの斬り死に覚悟の本気を感じ取り、悩んだあげく、班長に「私は腹を切れない」と退会を申し入れ、1970年(昭和45年)6月1日に、学生長の必勝と話し合うため新宿で会った。村田が「私は怖い、腹を切れないので退会させて下さい」と言うと、必勝は「村田よ、俺だっていざとなったら小便ちびって逃げるかも知れない。人間なんていざとなったら弱いもんだよ。だから君ももうちょっと会にいてみろ」と引き留め、退会を思い止まった村田は必勝と西口横丁の定食屋で昼飯を一緒に食べて別れたという。村田は事件後、その時にすでに決起の決意をしていた必勝が、「村田よ、安心してもう少し会にいてみろ。お前の代わりに俺が行くから」と言いたかったのではないかと回想している。
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