軍事的対立の始まり
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「アメリカ合衆国の歴史 (1776-1789)」の記事における「軍事的対立の始まり」の解説
詳細は「レキシントン・コンコードの戦い」を参照 1775年4月19日、イギリス軍の派遣部隊がマサチューセッツ湾植民地のボストンから内陸に進軍した。これは保管されている武器を捜索し、著名な地元指導者達を逮捕する命令を受けていた。この部隊はレキシントンで町の広場に集結していた小さな地元民兵集団と衝突して銃火を交わした。さらに次に向かったコンコードでは橋の上でより大きな民兵集団と交戦したが、武器は見つからず、指導者もいなかった。イギリス部隊はボストンに引き返す途中で絶えず組織化された民兵の攻撃に曝され、なんとか救援部隊に助けられて戻った。これがレキシントン・コンコードの戦いであり、アメリカ独立戦争の始まりとなった。この報せが広まると、あらゆる植民地の影の政府(通信委員会と呼ばれた)が、イギリスに忠実な役人を追い出し、民兵をボストンに派遣してそこのイギリス軍を包囲した。 この最初の武装衝突が起こった直後にフィラデルフィアで最初の第二次大陸会議が開かれた。13植民地の代表が出席したこの会議は即座に中央政府としての組織化を始め、各植民地には国としての憲法を起草するよう指示を出した。1775年6月、フレンチ・インディアン戦争を経験していたバージニアのカリスマ的政治指導者ジョージ・ワシントンが、新しく組織化された大陸軍の司令官に全会一致で指名され、ボストンのイギリス軍を包囲していた民兵隊を取り込んだ。どの邦でも国王に忠誠を表明するロイヤリストは少数存在したが、権力を握るところまでは至らなかった。これらロイヤリストは地方会議が創設した常設の安全委員会によって常に監視されることになった。そのような人々が沈黙を守ることのできる不文律はあったが、国王に対して金銭的に支持を表明することは許されなかった。ロイヤリストを主張する者の資産は押収され、大半のものはイギリスの支配する領土、特にニューヨーク市へ逃避した。
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