軍事的対立と米中接近
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1969年3月国境問題をめぐってウスリー江のダマンスキー島(中国名:珍宝島)で大規模な軍事衝突が発生し(珍宝島事件)、中ソ国境紛争が勃発する。8月にも新疆ウイグル自治区で衝突した。同8月末ソ連が中国の核施設を攻撃した際にアメリカが取る対応について非公式に打診してきたとアメリカ中央情報局がマスコミに明かす。直後ソ連共産党の機関誌『プラウダ』が中国を非難し、間接的に中国への核攻撃を示唆した。これに対して毛沢東はソ連への核攻撃の準備と、中国全土での核シェルターの建設を命じた。また、北京に指導者が集中していると核攻撃で全滅する可能性があると言い、指導層に地方分散を命じた。 同年9月北ベトナムのホー・チ・ミン主席国葬の帰途にソ連のアレクセイ・コスイギン首相が北京で周恩来総理と会談。北京空港で、国境問題を含めた両国関係について話し合うものの、前向きな結論は全く出なかった。 同年10月十大元帥の一人である陳毅外交部長が、周恩来に米ソの矛盾を利用し米中関係を打開することを提案 した。毛沢東はこの提案を受け入れ、米中関係の正常化が始まる。なおこれらの戦略変換は極秘裏で進められ、1971年のヘンリー・キッシンジャーの中国訪問が公表されるまで、中国は表面的には米ソ双方を非難し続けた。また同月に北京で中ソ国境会談がコスイギン・周恩来会談を受けて開催され、会談の結果武力行使は沈静化する。 1970年3月カンボジアでアメリカの支援を受けたロン・ノル将軍がクメール共和国を樹立し、ノロドム・シアヌーク国王を追放。シハヌークは中国へ亡命。 同年4月アメリカ軍・南ベトナム軍がカンボジア国境を侵犯(カンボジア内戦の始まり)。 同年7月9日キッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に中国を訪問し、7月16日に米中両国がこれを発表した。 1971年10月第26回国際連合総会にてアルバニア決議採択を受け、中華人民共和国が国際連合の中国の代表として認められ、中華民国が脱退する。中国と対立しつつもソ連は中国代表権問題についての立場は変えず、アルバニア決議に賛成票を投じ、アメリカは反対票を投じた。 1972年2月アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中国を訪問(ニクソン大統領の中国訪問)。日本はアメリカに梯子を外された頭越し外交による屈辱と、米中両国への対抗心から同年に日中国交正常化を実現させ、一つの中国原則から、中華民国(台湾)と国交断絶になる。 1973年3月アメリカ軍がベトナムから完全撤退。ラオス内戦終結。 1975年4月30日サイゴン陥落によってベトナム共和国(南ベトナム)が崩壊し、ベトナム戦争が終結する。カンボジアでクメール・ルージュがプノンペンを占領し、クメール共和国が崩壊した。5月にラオスが完全な共産主義国家となる(パテート・ラーオ)。 1976年1月カンボジアで中国の支援を受けた民主カンプチア成立。 同年7月2日ベトナム社会主義共和国成立。 1976年9月9日毛沢東が死去。 1977年華国鋒体制を確立。文化大革命の終結を宣言。 1978年1月ベトナムとカンボジアの国境紛争が激化し、国交断絶。6月にベトナムがコメコン加盟。11月にソ連・ベトナム友好協力条約が調印された。 1979年1月米中国交正常化が実現。ソ連が支援したベトナム軍がカンボジアに侵攻しクメール・ルージュを打倒、民主カンプチアが崩壊(カンボジア・ベトナム戦争)。 同年2月ベトナムによるカンボジア侵攻の報復として中国人民解放軍がベトナムを攻撃し、中越戦争が勃発。同年4月には中国は中ソ友好同盟相互援助条約を破棄した。12月にソ連・アフガン戦争(1988年終結)発生。 1980年代米ソ冷戦がデタントの時代から再び激しい対立の時代へ。
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