国境問題
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ムフリ川にはインドのトリプラ州とバングラデシュのノアカリ県の国境として機能している箇所がある。しかしムフリ川の流路は変わりやすく、これによって両国境を定めるのは難しくなっていた。インド側は1974年の協定による「その時のムフリ川の流路の中央」を国境と主張していたが、バングラデシュ側は1893年の地図に則った国境を主張しており、後者の主張では18万ヘクタール弱の土地がバングラデシュ側に渡る事となる状態であった。更にこの川には56.5ヘクタールほどの面積を持つムフリチャル島が存在している。この島は田圃として活用されている土地であるので両国ともに領有権を主張しており、両国の国境警備隊が小競り合いを起こす事もあった。その後2011年にインドの首相であるマンモハン・シンがバングラデシュを訪れてこの地の国境を両国同意の上で確定した。加えて、ムフリ川沿いに堤防を設置して流路を安定させる事、基準線を策定する事でも合意した。
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国境問題
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中国とネパールの間では、国境の様々な場所で多くの領土問題が主張されている。ネパール政府は2021年9月、内務省のJaya Narayan Acharya長官の下に調査チームを編成し、フムラ郡(英語版)のナムカ農村型自治体のリミにおける紛争を調査した。調査チームは、調査局のSushil Dangol副局長、ネパール警察のUmesh Raj Joshi上級警視、武装警察隊のPradip Kumar Pal上級警視、国家調査局のKishor Kumar Shrestha上級警視、内務省のAcharya長官で構成された。調査チームは9月26日に報告書を提出し、主張は真実であると結論付け、紛争解決のための合同部隊を作ることを提案した。
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国境問題
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「シャットゥルアラブ川」の記事における「国境問題」の解説
イランとイラクは長年、シャットゥルアラブ川流域の領土問題と航行権問題で対立し、これがイラン・イラク戦争(1980年 - 1988年)の開戦の原因ともなった。1988年には戦前の状態を回復することで両国は休戦したが、流域に重要な港湾都市があるシャットゥルアラブ川は依然両国間の問題となっている。 航路の使用と川沿いの国境線をめぐっては数世紀前から紛争があった。オスマン帝国がサファヴィー朝からイラクを奪った直後の1639年に結ばれた平和条約のズハブ条約(英語版)(ペルシア語: ズハブ条約、トルコ語: ガスレ・シーリーン条約)では、地元に住む部族の慣習と彼らの両帝国に対する忠誠に基づいて国境が定められ、厳密な測地などは行われなかった。シャットゥルアラブ川両岸の湿地帯には古くからマーシュ・アラブ族(英語版)(沼沢地アラブ)が住んでいたが、オスマン帝国は自らがマーシュ・アラブの利益を代表していると主張していた。 ペルシャとトルコの間では宗教・政治・文化をめぐる全面的な緊張が高まり、19世紀にはたびたび双方の間で紛争が起きた。両国間の交渉は長引き、イギリスおよびロシアの仲裁を経て、1847年にガージャール朝とオスマン帝国の間で第2次エルズルム条約が結ばれた。この後も両国では条約の撤回や見解の不一致がみられたため、1851年にはイギリスの外務大臣パーマストン卿がこのような意見を残した。 「トルコとペルシャの間の国境は、大英帝国とロシア帝国の側で一方的な決定をしないかぎり最終的な決着はないだろう」 オスマン帝国とペルシャは議定書を1913年にコンスタンティノープルで調印したが、第一次世界大戦によってすべては破棄された。イラク王国のイギリス人顧問は、ヨーロッパの国際河川で定められた国境線の原則(thalweg principle、航行可能な川で分けられる2カ国の国境線は、川床の最深部の線(タールヴェグ(thalweg)、谷線、航路の中間線として用いられる)によって定められる)の適用により、シャットゥルアラブ川をイランとイラク両国が航行できる川として確保しようとした。さらにイギリスの意志を受けたイラク側はシャットゥルアラブ川の国境線をイランの河岸沿いに引き、水面全面をイラク領とした。これには川を航行するイランのタンカーや船舶から通行料を取る意図もあった。1930年代には両国間の争いが激化し、国際連盟に持ち込まれた結果、1937年のテヘラン条約でイランはタールヴェグまでの主権を獲得した。 イラク側ではシャットゥルアラブ川に依存しない港の確保が重視され、イラク王国後期以来、川の西岸の湿地帯アル・ファウ半島に位置する漁村ウムカスル(Umm Qasr)の大規模港湾化が構想された。ウムカスルはアル・ファウ半島の西に位置し、クウェートとイラクの国境をなす小さな入り江でペルシャ湾につながっていた。カーシムによる政権奪取後の1958年に軍港がウムカスルに置かれ、以後外国の支援で港湾が建設された。 イラクのアフマド・ハサン・アル=バクル大統領もシャットゥルアラブ川はイラン側の川岸まですべてイラク領と主張していたが、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー国王はアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)をイラク領と主張する状態を不満に感じた。1970年には両国の国交は断絶し、以後1972年から武力衝突が頻発する。国際連合は調停者としてイラン・イラク両国間の争いに介入しようとしたが、両国に拒絶された。イラン側はこの間イラク北部のクルド人分離主義勢力を支援し、イラク側は北部に軍を移動しなければならないという圧力にさらされた。 1975年のOPECの席上で当時のイラク副大統領サッダーム・フセインとイランのパフラヴィー国王はアルジェ合意を結び、シャットゥルアラブ川およびフーゼスターンにおける国境問題の解決と敵対関係の停止を合意した。この合意では、おおよそタールヴェグに近い場所に引かれた線を国境線として確認した。 アルジェ合意から6年も経たない1980年、イラク新大統領のサッダーム・フセインはアルジェ合意を撤廃する宣言を出し、イラン領内に侵入した(当時イランはイスラム革命で政変が起きたとはいえ、国際法上、二国間あるいは多国間の条約は、どのような場合であれ一方の意志では撤廃できない)。イラン・イラク戦争においてシャットゥルアラブ川は両軍の戦闘の主な舞台となった。イラク軍はフーゼスターンに突出し、ホラムシャハルやアーバーダーンなどの都市や石油施設を破壊したが、イランは大反撃を行いイラク軍を川の反対側まで押し戻した。この川はイラクの唯一ともいえるペルシャ湾への出口であり、イラン側からの攻撃によってイラクに出入りする船舶は打撃を受け、1987年にはイラクの港湾はほぼ機能停止し物資輸送はクウェートやアカバ湾にまで振り替えられた。イラン・イラク戦争は両国に何ももたらさないまま停戦したが、1990年の湾岸戦争の際、サッダーム政権はクウェート侵攻を前にイランを懐柔するためアルジェ合意を確認した。
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国境問題
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「中国とブータンの関係」の記事における「国境問題」の解説
ブータンは長い間チベットと文化的・歴史的・宗教的・経済的に強い繋がりを持っていた。チベットとの関係は1950年代に中国がチベットを占領した際に緊張した。チベットと異なり、ブータンは中国が宗主国となった歴史は無く、また、イギリス領インド帝国時代にイギリスが宗主国となった歴史も無い。 ブータンの中国との国境は、公式には認められておらず、境界線も定められていない。1911年頃の一時期、中華民国はブータンの一部に対する領有権を主張していた。この領有主張は、1949年の国共内戦で中国共産党が中国本土を制圧した後、中華人民共和国によって引き継がれた。毛沢東は、1939年に出版された『中国革命と中国共産党』の原文で、「中国の正しい境界線にはビルマ、ブータン、ネパールが含まれる」と宣言している。また、毛沢東の「西蔵五指(英語版)」政策では、ブータンをチベットの一部、ひいては中国の一部と言及している。1959年、中国は"A brief history of China"の中で、ブータンやその他の国のかなりの部分を領土主張に含む地図を発表した。 1951年にチベット自治区政府と中国中央政府との間で十七か条協定が結ばれた後、中国はブータン国境付近に兵士を増加させたため、ブータンはラサから代表を撤退させた。 1959年のチベット蜂起とダライ・ラマ14世のインドへの亡命により、ブータンにとって中国との国境の安全確保は必要不可欠なものとなっていた。推定6千人のチベット人がブータンに逃れ、亡命が認められたが、ブータンはその後、さらなる難民の発生を恐れて中国との国境を閉鎖した。1959年7月、中国人民解放軍はチベットの占領とともに、17世紀にガワン・ナムゲルからブータンに与えられ、以来300年以上にわたってブータンの統治下にあった西チベットにあるブータンの飛地の一部を占領した。その中には、ダルチェン(英語版)、ラプラン寺、ガルトク(英語版)、およびカイラス山の近くにあるいくつかの小さな寺や村が含まれていた。 中国が1961年に発行した地図には、中国がブータン、ネパール、シッキム王国(現インド・シッキム州)の領土を主張していることが記されていた。また、中国兵やチベット人牧夫の自国領土への侵入により、ブータンは緊張状態に陥った。ブータンは、国境を越えた貿易を禁止し、国境を閉鎖し、インドと広範な軍事関係を築いた。1962年の中印国境紛争では、ブータン当局はインド軍がブータン領内を移動することを認めた。しかし、インドがこの戦争に敗れたことにより、インドのブータン防衛能力が懸念されるようになった。その結果、ブータンはインドとの関係を構築する一方で、公式には中立の方針を打ち出した。ブータン国王の国民議会での答弁によると、ブータンと中国との間には4つの紛争地域がある。中国との国境は、西のドクラム(英語版)から、山の尾根に沿ってガモチェン(英語版)、バタングラ、シンチェラを通り、アモチュ(英語版)まで続いている。ドクラムの紛争地域は89平方キロメートル、シンチュルンパとギューの紛争地域は約180平方キロメートルである。 1970年代まで、中印国境紛争をめぐる中国との協議においては、インドがブータンの意見を代弁していた。ブータンは1971年に国連加盟を果たしてから、より独立した外交政策をとるようになった。ブータンは国連において、インドとともに中国の議席を中華民国ではなく中華人民共和国が占めることに賛成し、「一つの中国」政策を公然と支持した。1974年、ブータンはジグミ・シンゲ・ワンチュクの戴冠式に駐インド中華人民共和国大使を招待し、象徴的な働きかけを行った。1983年には、中国の呉学謙外相とブータンのダワ・ツェリン(英語版)外相がニューヨークで二国間関係樹立のための会談を行った。1984年、中国とブータンは、国境紛争を巡る年1回の直接協議を開始した。 1998年、中国とブータンは、国境の平和を維持するための二国間協定に署名した。この協定では、中国はブータンの主権と領土保全を尊重することを確認し、双方は「平和五原則」に基づいた関係を構築することを目指している。しかし、中国は1998年の合意に反して、ブータンが自国領であると主張する場所に道路を建設し、緊張が高まった。2002年、中国は「証拠」と称するものを提示して紛争中の土地の領有権を主張し、交渉の末、暫定合意に達した。2016年8月11日、ブータンのダムチョ・ドルジ外相は北京を訪れ、中国の李源潮副主席と第24回国境協議を行った。両者は、様々な分野での協力を強化する用意があることや、国境問題の解決を希望するというコメントを発表した。 2016年8月11日にブータンのダムチョ・ドルジ外相は中華人民共和国の首都である北京を訪問し、中国の李源潮国家副主席との第24回国境協議を行った。双方は様々な分野での協力関係を強化する用意があることを示すとともに、境界問題の解決に向けた希望を示すコメントを行った。
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