国境争いの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/27 13:32 UTC 版)
1697年(元禄10年)、江戸幕府は各大名に国絵図の作成を命じた。伊賀国は藤堂藩、山城国は淀藩が担当した。幕府は国境線を一本に確定することを求め、当事者である住民同士でまず解決することとしたが、この地は両村の住民、田畑、山林が混在状態であり、これまで特に問題視されていなかったため難しかった。藤堂藩と淀藩の間で度々折衝が進められたが双方譲らず、1698年(元禄11年)に幕府の評定所で裁決することとなった。検地の現地調査の結果、大河原村の主張する「かう谷川限」、島ヶ原村が主張する「浅子川限」ともに国境とは認められず、検使により妥協点となる場所が国境として提示された。これを元に裁許絵図が作成され、1700年(元禄13年)に交付された。二本杭の北大河原村側にある今山地区は「伊賀山」と呼ばれていたが、これより「今山」と称されるようになった。山城国絵図にも「今山」の記載がある。
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