カンボジア侵攻
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「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「カンボジア侵攻」の解説
1978年12月初め、2個師団から成るカンボジア人部隊は、ベトナムの攻撃に合わせて試験投入され、国境を越えてクラティエの町に向かった。一方で、他の補助師団はカンボジア軍部隊の補給路を断つために、地方の街道に沿って展開された。中国からの惜しみない支援を受けていたにもかかわらず、カンボジア軍はベトナムの攻撃に耐えられず、多大な犠牲を被ることになった。1978年12月25日、ついにベトナムは、推定15万の兵により構成された13個師団を投入しての大規模な侵攻を開始した。これらの兵員は、重火器および航空戦力により十分に支援されていた。初めのうちカンボジアは、ベトナムの軍勢に対して通常の戦闘方法で直接に挑んだが、しかしこの戦術の結果、2週間でカンボジア軍の半数を失うことになった。戦場における多大な敗北により、カンボジア指導部は国の西部に向けて撤退せざるを得なかった。1979年1月7日、ベトナム軍はKUFNSメンバーとともにプノンペン入りした。その翌日、ヘン・サムリンを国家元首とし、ペン・ソバンをカンプチア人民革命党書記長とする親越カンボジア国家、「カンプチア人民共和国」 (PRK) が樹立された。 ベトナムの侵攻により粉砕された政府と軍部の人員、その多くと共にクメール・ルージュ指導部はタイに逃れることを余儀なくされ、タイ政府からは暖かく迎え入れられた。クメール・ルージュによりもたらされた、圧倒的な経済問題や付随する難民にもかかわらず、タイ政府はトラット県のカオラルンキャンプでクメール・ルージュを保護した。その間にプノンペンでは、新生カンボジア政府が、政治変動と繰り返された戦争の時代に大きく破壊された経済と社会を再生しようとしていた。しかし国家を再建しようとする新生カンボジア政府の努力は、教育を受けた有能な人材の深刻な欠乏という問題に直面した。これは過去4年間に教育を受けた人々のほとんどが亡命したり、クメール・ルージュ政府に殺されたためである。年末までに新政府の国家建設の試みは、さらに西部地区の数個の反ベトナム抵抗運動に阻まれた。
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