カンボジア共産党とは? わかりやすく解説

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カンプチア共産党

(カンボジア共産党 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 23:44 UTC 版)

カンプチア(カンボジア)共産党
クメール語: គណបក្សកុំមុយនីសកម្ពុជា
中央委員会書記長英語版 トゥー・サモット英語版
サロット・サルポル・ポト
副書記長 ヌオン・チア
創立 1951年
解散 1981年
前身政党 インドシナ共産党
後継政党 クメール・ルージュ
(1968-1996)
カンボジア人民党
(1979-)
民主カンプチア党英語版
(1988-1993)
カンプチア国家統一党
(1993-1994)
青年部 カンプチア共産主義者青年同盟英語版
政治的思想 共産主義
農村社会主義英語版
クメール・ナショナリズム英語版
復古主義
原始共産主義
政治的立場 シンクレティズム極右極左の融合)[1][2][3]
公式カラー 赤と黄
カンボジアの政治
カンボジアの政党一覧
カンボジアの選挙

カンプチア(カンボジア)共産党クメール語: គណបក្សកុំមុយនីសកម្ពុជា; CPK)とは、かつて存在したカンボジアの政党。

設立時の名称はクメール人民革命党: Khmer People's Revolutionary Party)であったが、程なく改称されている。

概説

1951年、旧インドシナ共産党クメール人居住地における後継政党として、クメール人民革命党の名称で設立される。設立前後の党史については諸説が混在しており、正確な設立日についても歴史学者の意見は一致していない。後に党名をカンプチア(カンボジア)共産党(クメール語: គណបក្សកុំមុយនីសកម្ពុជា; CPK)に改め、トゥー・サモット英語版が初代書記長に選出された。ヨーロッパから波及した共産主義を基本としつつも、都市部ではなく農村共同体を社会の中心と考える農村社会主義英語版イデオロギーとして掲げられた。また労働者や農民など下層民からの支持に加えて、クメール人ナショナリズムを大事な支持基盤としていた。

カンプチア共産党は、国王ノロドム・シハヌーク率いるカンボジア王国内の政争やベトナム戦争カンボジア内戦などを通じて勢力を伸ばし、最終的に民主カンプチアを成立させた。並行して党内では第2代書記長サロット・サル(ポル・ポト)による粛清で独裁体制が構築され、党内の反ポル・ポト派はベトナムなど周辺国に亡命してカンボジア人民党を結党した。この頃からカンプチア共産党内のポル・ポト派はクメール・ルージュの俗称で呼ばれるようになった。

カンボジア・ベトナム戦争民主カンプチアベトナム社会主義共和国に敗北し、新たにカンボジア人民党によるカンプチア人民共和国が成立すると、ポル・ポトを筆頭とするクメール・ルージュ体制を支持する勢力は反政府軍を組織した。ベトナムとソ連の勢力拡大に反感を持つアメリカと中国の支援を受け、反共勢力やクメール人民族主義者と協力して反政府運動を展開する中、ポル・ポトはより広範な反ベトナム・反ソ同盟を構築すべく1981年にカンプチア共産党を解散した。新たに社会民主主義を掲げる民主カンプチア党英語版が結党され、これによってカンプチア共産党とクメール・ルージュという名称は一致しなくなった。

後継政党

その後、冷戦崩壊で西側の支援が途絶えた事で反ベトナム勢力は苦境が続き、国際連合カンボジア暫定統治機構による1993年カンボジア国民議会選挙では民主カンプチア党英語版を中心としたカンプチア国家統一党英語版を設立して参加を検討したが、結局は選挙のボイコットを宣言した。選挙後に立憲君主制が採用されてノロドム・シハヌークが復帰するとカンプチア国家統一党は非合法政党として解散を命じられた。1996年までにはクメール・ルージュ系の武装勢力は大部分が掃討され、潜伏していたポル・ポトも1998年に死亡した。

途中でカンプチア共産党から分派した(彼ら自身はクメール人民革命党時代の後継を自称している)カンボジア人民党は現在もカンボジア政界の主導権を握り、首相や閣僚を輩出している。

脚注


カンボジア共産党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 07:38 UTC 版)

ポル・ポト」の記事における「カンボジア共産党」の解説

クメール・ルージュ」も参照 1953年当時フランスインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動起こっており、この活動中心であるベトナムからカンボジアラオス波及した1954年にはフランス仏領インドシナ去りベトミンジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し北緯17度線以北北ベトナム集結したこのためカンボジア国内のベトナム人左翼活動家引き上げ始まったカンボジア人左翼活動家の中で、フランスで教育受けた者の一部ベトナム撤退合わせてハノイ逃れたが、ポル・ポト身分偽って密かにプノンペン戻った戻った理由は、ベトナムへ戻るクメール人民革命党幹部交代するためであった。こうして、この頃からポル・ポトとそのグループは、クメール人民革命党プノンペン支部と関係を深めるようになった革命運動の実績がないことを考えると、与えられポル・ポト地位高かったが、これは状況の変化によってクメール人民革命党幹部手探り状態であったためである。当時ポル・ポト仕事1955年予定され独立後初の選挙対策で、クロム・プラチェアチョン(Krom Pracheachon、クメール語で「市民グループ」の意)と民主党との調整役であったまた、プラチェアチョラーナ(Pracheachollana、クメール語で「人民運動」の意。右派のソン・ゴク・タンのグループのこと)の影響小さくするために、プノンペン市内活動グループ人民党集めまた、人民党内部からソン・ゴク・タンのシンパ排除していった。プノンペン支部委員会学生運動担当委員になったと書文献もある。またポル・ポトはこの時期に、共産党員獲得行っていた。1954年12月に、ポル・ポトはピン・トゥオク(Ping Thuok、後にソク・トゥオクSok Thuokまたはヴォン・ヴェトVorn Vetとして知られるうになる)を共産党プノンペン委員会紹介している。 1955年3月3日国王ノロドム・シハヌーク退位し、後にサンクム人民社会主義共同体)という政党組織したシハヌークはその威光共産主義などの反対勢力一掃し1955年9月11日翼賛選挙議席をすべて獲得した。しかし政界では左右両派の対立続きシハヌーク必要に応じて左派への歩み寄り弾圧繰り返した1973年にカンボジア共産党が配布した党の歴史に関する文書では、1959年終わり頃から政府農村部での革命運動弾圧加え始めたとしている。 1960年ポル・ポトカンボジア労働者党中央常任委員就任した。ただし、ポル・ポト自身は、1961年ヌオン・チア代わり副書記長に選出されたと主張している。1962年シハヌークはプラチアチョンのスポークスマンをはじめ15人の活動家罪名無く逮捕拘留する。プラチアチョンの機関紙編集長逮捕され、これらの活動家16人は死刑宣告された。後に彼らへの死刑長期刑に減刑されるが機関紙廃刊となり、表立って活動していたプラチアチョングループは消滅する。これ以後都市部急進的左翼地下潜行して秘密活動傾斜していくようになる。しかし1966年頃までは、後に重要な役割を示す左翼運動家の多くは、教師として左傾化した学生生み出したり、またそれが急進的なものでないかぎりは比較自由に政治活動をおこなっていた。1960年代半ばに入ると、ベトナム戦争へのアメリカ関与本格化したことで右派影響力強まりシハヌーク使える政治的裁量範囲次第狭まっていった。 1963年2月シハヌーク外遊中にシェムリアップ市で暴動発生した警官により学生1人殺害されたことから学生抗議デモ始まり地方政府警官をかばうと、最終的に地方警察本部対す大規模な暴動へと発展したシハヌークはこの暴動左翼による扇動考え帰国後ケン・ヴァンサクとソン・セン非難した。さらに3月8日には、主要な破壊活動左翼として34人の名前公表した。このリストには、都市部左派知識人のほとんど全て載っていた。キュー・サムファンらは国民議会非難を受け、ロン・ノル左派一掃シハヌーク求め1955年以来最大政治危機となり、左翼にとっては最大弾圧危機見舞われた。しかし、シハヌークロン・ノル提案拒否しキュー・サムファンらの辞任撤回されリスト挙げられ34人もシエン・アンを除いて特に処罰されることなく終わり結局は都市部左翼状況に関しては元の状態に戻っていった。また、この暴動事件最中2月20日21日プノンペン第3回党大会開かれポル・ポト書記長に就任した。 一方農村部では弾圧強化され左翼活動家殺害投獄が行われた。こうした状況のなか1963年5月ポル・ポトイエン・サリプノンペンから消えコンポンチャム州国境周辺移動したジャングルでの地下活動入ってからサロット・サルは「ポル」というコードネーム用いようになった。(「ポル・ポト」という名が使われるようになったのは、1976年4月14日民主カンプチアの新首相として公式に発表され以降のことである。それ以前は「ポル」、「同志書記長」、「オンカー」として知られていた。)ポル・ポト以後12年地下活動費やした1964年末、ポル・ポトはケオ・メアに伴われラオス国境越えホーチミン・ルートハノイ入ったハノイ数ヶ月滞在した後、ポル・ポト中華人民共和国北朝鮮訪れたシハヌーク北京滞在しているのと同じ時期に、ポル・ポト北京に4ヶ月以上滞在し鄧小平劉少奇らと仕事をしたが詳細わかっていない。 その後平壌行ったあと再び北京戻り1966年始めカンボジア帰ったヴォン・ヴェトによればポル・ポト中華人民共和国から帰国した後の1966年初めカンボジア労働者党は、都市部勢力対す闘争農村部武装闘争準備方針打ち出した文献によれば1965年からカンボジア労働者党中国共産党影響下に入ったのち、1966年からは文革派の康生影響下に入っている。 また同年9月には、党名をカンボジア共産党に改名している。カンボジア共産党は後にクメール・ルージュとして知られるようになり、同党の武装組織は「ポル・ポト派」と呼称された。 ただし、ポル・ポト帰国した時期中華人民共和国文化大革命本格化する直前のことである。大躍進時代毛沢東思想は別として、ポル・ポト文化大革命から思想的影響受けたかどうかははっきりとしないポル・ポトイエン・サリソン・センキュー・サムファンその他のクメール・ルージュ幹部文化大革命対す共感を示す発言をしたことはない。また、ジャングル入りした学生証言によれば文化大革命前の毛沢東主義スローガン好まれていたが、文化大革命事実上無視されていた。 「ジャングルの中では、北京放送聞いて流れてくるスローガン(「張子の虎」、「農村から都市包囲する」、「小から大へ」など)を取り上げてはいたが、文化大革命に関する会話教育も、毛沢東思想に関する勉強行われていなかった。党の方針は、困難で長引くが最終的に確実に勝利するはずだという闘争のことばかりだった。都市部には毛沢東翻訳本あふれていたが、農村部にはなかった」という。文献では、ポル・ポトイエン・サリは、オポチュニストとして、文化大革命思想とは関係なくむしろ利用されつつ中華人民共和国利用したという見方示されている。この見方は、他の文献にも見られる1967年ポル・ポトカンボジア東北地方ジャングル内にカンボジア共産党の訓練学校作り9日間の政治レクチャー行ったが、その間中華人民共和国についてほとんど言及せず、文化大革命についてはまった述べなかったという。 この時期クメール・ルージュ都市部拠点壊滅しており、辺境部のジャングル点々小さな左翼集団があるだけで、左翼集団間連絡も容易ではなかった。ポル・ポト1977年発言によれば連絡のためには徒歩行ったり、象の背中乗って行かねばならず、また、連絡ルート遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月必要だった」という。 1967年4月バタンバン州のサムロート(英語版)で、政府による強制的な余剰米安値買い付け反対する農民地元政府の間で衝突が起こる。1965年頃からカンボジア余剰米少なくとも4分の1あまりが、ベトナム戦争真っただ中北ベトナム政府南ベトナム解放民族戦線ベトコン)に買い上げられており、シハヌーク外遊中、ロン・ノルにより南ベトナム解放民族戦線への米の供給止めるために、強制的に余剰米買い上げする方針打ち出された。しかし、政府買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも低く地元共産主義勢力反米反政府ビラ巻き暴動煽動した。サムロート周辺暴動鎮圧作戦数ヶ月続きこの後シハヌークプノンペン共産主義者達への弾圧を一層強化した。同じ頃より、ポル・ポト中華人民共和国支援されカンボジア政府対す武装蜂起始めた

※この「カンボジア共産党」の解説は、「ポル・ポト」の解説の一部です。
「カンボジア共産党」を含む「ポル・ポト」の記事については、「ポル・ポト」の概要を参照ください。

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