1977年:戦争に発展
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「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「1977年:戦争に発展」の解説
1976年年末にかけてベトナムとカンボジアは、公式には相互の関係を改善しようとしているように見えたが、両国の指導部においては、互いへの不信の方が勝り始めていた。ベトナムからすれば、自らこそが東南アジアの「真の」マルクス・レーニン主義革命の支援者であり、カンボジアとラオスに対して支配を及ぼすことは不可欠であった。確かに、それこそが北ベトナムがロン・ノル政権と戦うクメール・ルージュを支援した理由であった。ベトナムは、カンボジアの共産主義者がパテート・ラーオ同様、勝利の暁には親ベトナム路線を採用するとの希望の下で支援を行っていた。しかしクメール・ルージュ支配区域で活動する北ベトナム軍部隊は、自らの同盟軍からの武装攻撃にさらされ、早くも1973年にはその希望は粉砕された。カンボジア共産党内の親ベトナム分子が排除され、カンボジア内におけるベトナムの立場は戦後さらに弱体化した。 従って1976年9月に親中派のポル・ポトと義兄弟のイエン・サリが首相と外相を辞任すると、ベトナムのファム・ヴァン・ドン首相とレ・ズアン共産党書記長は、ベトナムがカンボジアに対してさらに影響を与えられるものと楽観視した。1976年11月16日のソ連の駐ベトナム大使との私的懇談において、レ・ズアンはイエン・サリとポル・ポトのふたりを中国寄りの「悪い奴等」と退けた。その際、レ・ズアンはヌオン・チアがポル・ポトの代わりに民主カンプチアの首相になり、彼がベトナム好みの人物であるため、ベトナムは彼を通じて影響を与えられると確認した。しかし、その後の数か月に起きた事件で、レ・ズアンはヌオン・チアに対する評価の誤りを修正することになる。 一方プノンペンのカンボジア指導部は、同国に対するベトナムの歴史的優越の結果から、ベトナム指導部に対する逆巻く嫌悪感と恐怖感を増大させていた。カンボジアからすれば、インドシナで優勢なベトナムの戦略とは、ベトナムで訓練された党員がカンボジア共産党とラオス共産党の一部になることであった。そのため、北ベトナムで訓練された最初のクメール・ルージュ党員がカンボジアに帰国した際には、直ぐに党から粛清された。ロン・ノル政権が敗れてからは、ポル・ポトはソ連やベトナムの手先と考える人々を、党やカンボジア政府から粛清し続けた。このとき、戦争で「アメリカ帝国主義」を独力で破ったと主張するクメール・ルージュ指導部に浸透していた勝利至上主義の状況で、カンボジアはベトナムに対する戦争に乗り出し始めた。 カンボジア軍がベトナムに対する戦争を準備していたとき、ベトナムの国営メディアは1977年4月17日、民主カンプチア建国2周年記念の祝賀メッセージを送っていた。4月30日、サイゴン陥落2周年記念のこの日、カンボジアはベトナムのアンザン省北部への軍事攻撃という形で応え、ベトナム人市民数百人が殺害された。ベトナム軍はカンボジアの攻撃地点へ部隊を移動させつつ、6月7日、ベトナムは未解決の問題を討議するためのハイレベル協議を提案した。6月18日、カンボジア政府はベトナムが紛争地域から全部隊を撤収し、敵対勢力間に非武装地帯を創設すべきとの要求でこれに答えた。 互いに相手の提案を拒否し合い、カンボジア軍は国境を越えてベトナムの村落を攻撃する兵士を送り続けた。1977年9月、カンボジア砲兵隊は国境沿いのベトナムの村数村を攻撃し、ドンタップ省の6村が、カンボジア歩兵隊に占領された。間もなくしてカンボジア軍の6個師団が、タイニン省に10 kilometers (6.2 mi)ほど侵入し、そこで1,000人以上のベトナム人市民を殺害した。カンボジアの大規模な侵攻に怒り、ベトナム人民軍は約6万人からなる8個師団を召集してカンボジアに対する報復攻撃を開始した。12月16日、ベトナム人民空軍の小部隊の支援を受けたベトナムの師団は、カンボジア政府を交渉の場に引き出す目的で国境を超えた。 いざ戦闘が始まると、カンボジアの戦闘部隊がベトナム軍に押し戻されてすぐに占領地を失った。1977年12月末までにベトナムはカンボジアに対する明白な勝利を収めた。この過程では、ベトナム軍がスヴァイリエン州を進撃し、首都には短期間留まった。ベトナムの報復が強烈であったとはいえ、カンボジア政府は反攻を続けた。1977年12月31日、キュー・サムファンは「民主カンプチアの聖なる領域」からベトナム軍が撤退するまでカンボジア政府は「一時的に」ベトナムと断交すると述べた。1978年1月6日、ベトナムの師団は、プノンペンからわずか38 kilometers (24 mi)の地点にいたが、ベトナム政府は自らの政治目的達成に失敗したため、カンボジアからの撤退を決めた。撤退に際してベトナム軍は、後の指導者フン・センを含む数多の囚人や難民も避難させた。
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