共産主義の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:02 UTC 版)
「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「共産主義の興隆」の解説
カンボジアとベトナムの共産主義運動は、第二次世界大戦に先立ち、主としてベトナム人に支配され元々はインドシナ半島におけるフランスの植民地支配と戦うことを掲げたインドシナ共産党 (ICP) の創設とともに始まった。1941年、(一般に別名のホー・チ・ミンで知られる)グエン・アイ・クオックはベトナム独立同盟会(ベトミン)を創設した。 第二次世界大戦の終わりに日本が敗れ、この時、フランスに対する第一次インドシナ独立戦争が開始された。この時期のベトナム軍は、武器や糧食、部隊の輸送に大いにカンボジアを使った。この関係はベトナム戦争を通じて続き、その間、ベトナム共産党は南ベトナムを攻撃する輸送路や足掛かりとしてカンボジアを利用した。1951年、ベトナムは分離したカンボジア共産党(カンボジア人民党 (KPRP))の創設を指導し、独立を追及するためにカンボジアの民族主義的分離主義運動クメール・セレイ(自由クメール)と共闘した。フランスの支配を終わらせる交渉であった1954年のジュネーブ協約に合わせて、新生共産主義国家北ベトナムは、カンボジアからベトミンの兵士と幹部を全て引き上げた。しかしKPRPがその指導の下で主としてベトナム人やカンボジア人により組織されたために、約5,000人の共産党幹部が行動を共にした。 ベトナムが去ったカンボジアでは左翼の空白状態が生じた。間もなくその多くは、フランスで共産主義教育を受けた若い革命家集団が帰国して埋め合わされた。1960年、KPRPはカンプチア共産党 (KCP) と改称し、この名称はKCPを記念する「真の」時代として後にサロット・サル(ポル・ポト)やイエン・サリ、キュー・サムファンの周辺に形成された多数派連合により採用された。この派閥はクメール・ルージュの起源となり、毛沢東理論に最も影響された共産党支部の母体となった。
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