共産主義の知識人、党活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:45 UTC 版)
「ジョルジュ・ポリツェル」の記事における「共産主義の知識人、党活動」の解説
1932年3月17日に国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部として革命作家芸術家協会が結成され、翌1933年7月に機関誌『コミューン(フランス語版)』が創刊された。革命作家芸術家協会結成時の会員は作家80人、芸術家120人、うち共産党員が36人で、ポリツェル、ニザンのほか、ブルトン、アラゴン、クルヴェル、ペレ、ロベール・デスノス、マックス・エルンストらのシュルレアリスト、アンドレ・マルロー、アンドレ・ジッド、さらに戦間期の反戦・平和運動を主導したロマン・ロラン、アンリ・バルビュスらが参加し、『リュマニテ』紙の編集長で作家のポール・ヴァイヤン=クーチュリエ(フランス語版)が事務局長を務めた。ポリツェルは『リュマニテ』紙や『コミューン』誌にも寄稿し、共産党の活動で重要な役割を担うようになるが、これに伴って哲学・心理学の研究から次第に遠ざかり、ルフェーヴルらとの決裂の原因となった。彼はニザンに「前衛はおしまいだ」と明言していた。ルフェーヴルは、1930年代のフランスにおけるマルクス主義は1つの学問に過ぎなかったが、ポリツェルは「党派的で主義に殉じることのできる聖人のような人間であったために、心理学者としてあれほど才能があったにもかかわらず」、それを共産党のために放棄したのだと述懐する。 入党後にまず統一労働総同盟(フランス語版)(CGTU)のジュリアン・ラカモン(フランス語版)からの要請で資料管理局に勤務し、共産党と労働総同盟の活動のために資料を収集し、同局責任者のアルベール・ヴァサール(フランス語版)に認められ、1933年から政治局で政策決定に関わる資料の収集と作成、および中央委員会のジャック・デュクロ(フランス語版)からの依頼で、ヒトラー内閣成立前後のドイツ共産党の活動に関する資料や成立直後のドイツ共産党員エルンスト・テールマンの逮捕に関する資料を収集するなど、重要な任務を次々と託されることになった。
※この「共産主義の知識人、党活動」の解説は、「ジョルジュ・ポリツェル」の解説の一部です。
「共産主義の知識人、党活動」を含む「ジョルジュ・ポリツェル」の記事については、「ジョルジュ・ポリツェル」の概要を参照ください。
- 共産主義の知識人、党活動のページへのリンク