共産主義の支配 (1945–1989)
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第二次大戦終結直後から、様々な理由でユダヤ系ポーランド人はポーランドを離れた。ポーランドでの共産主義やホロコーストにより家族親族を多く失ったこと、またはポーランド人の反ユダヤ主義を避けたい等の理由があった。ポーランドは、ユダヤ人移民がイギリス委任統治領パレスチナへ自由に行ける東側諸国の唯一の国であった。 1944–46年、反ユダヤ運動が起こる。ポーランド人によって数百人から1500人のユダヤ人が殺害された。一方、1947年に新憲法を制定したポーランド国民統一臨時政府ではソ連の支援を受けた共産主義のポーランド統一労働者党が単一政党として実権を掌握したが、同年11月29日の国連総会におけるパレスチナ分割決議にはソ連やチェコスロバキアとともに賛成した。1948年5月14日、ポーランド出身の非共産系社会主義者だったダヴィド・ベン=グリオンを首相とするイスラエル国家が独立を宣言すると5月19日にはポーランドがこれを承認し、同年内にワルシャワへイスラエル大使館が設置されてユダヤ系住民の移住を支援した。 1958–59年、ヨシフ・スターリンの死後、既に1952年にポーランド人民共和国となっていたポーランドから5万人のユダヤ人がイスラエルに移民した。 ポーランド人共産主義者の中に著しい数のユダヤ系が存在し、ポーランド人民共和国や公安(Urząd Bezpieczeństwa、UB )、外交諜報を起立するための活動を行なった。その中で、en:Jakub Berman、en:Hilary Mincなどは共産主義経済発足に責務があった。 1967年、第三次中東戦争でアメリカの支援を受けたイスラエルが周辺のアラブ諸国に圧勝して支配地域を拡大すると、エジプトのナーセル政権を支援していたソ連に同調してポーランド政府はイスラエルとの国交を断絶、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}反シオニズムを装い反ユダヤ主義を拡散した。国家主導の反シオニズム運動は、ポーランド統一労働者党の政治当局や大学や学校の教師職からユダヤ人は排除された[要出典]。 1967~1971年、政治経済や秘密警察の圧力により14,000人のユダヤ系ポーランド人は強制的に国外移住となりポーランド市民権は放棄となった。 1970年代半ば、第三次中東戦争後に東側諸国の中で初めてイスラエルとの外交修復を試みた。 1970年代末、ユダヤ人活動家は共産主義政権に対抗し、反共主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)」を創設した。これは、ポーランドと東欧で初めての主要な市民グループとなった。 1986年、イスラエルとの国交は部分的に回復した。 1989年、独立自主管理労組「連帯」を中心とした一連のポーランド民主化運動の結果、共産主義政権は崩壊し、9月7日に現在のポーランド共和国(ポーランド第三共和国)が成立した。この時点でユダヤ人居住者は 5,000–10,000人程しか残らなかった。ポーランド残留のユダヤ人は、世俗主義的なユダヤ教徒の家系であったことから、ある者は自然に、ある者は前述の政治闘争の結果自らのユダヤ系の出自を隠した。それまでに多くの者はカトリック教徒となっていたが、一部は無神論者や懐疑主義者もいた。
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