ポーランド民主化運動とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ポーランド民主化運動の意味・解説 

ポーランド民主化運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/20 03:01 UTC 版)

ポーランドの歴史
ピャスト朝
10世紀 - 1370年
 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年
クラクフ共和国
1815年 - 1846年
ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在
[編集]

ポーランド民主化運動(ポーランドみんしゅかうんどう)は、ポーランドの政治改革運動。最終的に従来のポーランド統一労働者党による政権は下野し、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)率いる独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。

通常、ポーランドや欧米ではこの民主化期間を第3共和制ポーランド語: III Rzeczpospolita (III RP): The Polish Third Republic)と呼ぶ。これは、1989年以降、特に1989年から1991年にかけて行われた民主化(運動)による民主政権を指す。

背景

ポーランドはロシアと領土を巡り、中世から幾度となくポーランド・ロシア戦争が続いていた。第二次世界大戦後、共産主義ソビエト連邦によりポーランドはナチス・ドイツの占領から解放され、ソ連の重要な東側諸国となった。ポーランド人共産主義者により国は統制された[1]

共産主義時代のポーランド人民共和国は慢性的に経済状況が悪化していた。西側諸国から膨大な借款を受け続け、インフレーション、食料配給制と食料・物資・経済の欠乏、ストライキ暴動暴動鎮圧を繰り返していた[2]

1985年9月、トルン大学(ニコラス・コペルニクス大学)天文学者ら(Zygmunt Turlo、Leszek Zaleski、Piotr Lukaszewski、Jan Hanasz)が自作の放送機材を用いトルンの国営テレビ放送を電波ジャックし、「値上げ、嘘、弾圧はもうたくさんだ。トルン「連帯」 (Enough price increases, lies, and repressions. Solidarity Torun)」と「選挙のボイコットはわれわれの義務である (It is our duty to election boycott)」という2つの字幕と独立自主管理労働組合「連帯」のロゴを国営放送の内容に被さるように表示させた[3]。4人は当局に発見され、「無免許の無線送信機の所持と公衆の不安を煽る行為」を罪状として拘束された。しかし当局は西側諸国からの批判をかわす為でそれぞれに100ドル相当の罰金と執行猶予付きの懲役判決を下すに留まった。しかし、ポーランドの一般的な月収が20ドルに満たない時代であった当時としてはこの判決でも大変な重刑であり、民衆の不満は高まった[4]

1987年、政府は経済政策の改善に失敗。急激なインフレにより、価格が40%も値上がり、直ちに全国で暴動と長期的なストライキが起こる。政府により暴力的な暴動鎮圧と軍の介入がなされた。

1989年、円卓会議により、ストライキは終了する。東欧革命と共にポーランドの共産主義体制は終了した。

1999年、NATOに加盟。2004年、EUに加盟。

キリスト教宗教は共産主義政権により弾圧されていた。ポーランド人ヨハネ・パウロ2世は、1979年6月にポーランドを訪問[注釈 1]、国民を勇気づけた。 1980年からレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化、政府は1981年に連帯を非合法化。1983年戒厳令が解除されるまでにも、非合法ながら連帯は活動を続けた。依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド統一労働者党による政権を揺るがし続けた。

ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ政権は、連帯の非合法化と戒厳令を敷いた。その後は穏健主義の立場で事態の打開を模索した。

民主化の推移

ポーランドでの民主化を模索する動きは1970年代末、ポーランド系ユダヤ人活動家は反共主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)」を組織した。1981年、非合法化された「連帯」を合法化、1989年の2月からはポーランド統一労働者党政権と連帯や他の民主化勢力との(円卓会議)が行なわれた。両者間で自由選挙[注釈 2]の実施をすることで合意がなされた。東欧では先頭を切って自由選挙が実施され、ヴァウェンサ率いる連帯が圧勝[注釈 3]。新政権として民主化を求める非労働党勢力が主導権を握りつつも、労働党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に連帯などの非労働党勢力出身の人物を任命して、新生ポーランドがスタートした。

新政権は、ポーランド統一労働者党の共産主義やスターリン主義に基づいた憲法の改正、国名改正でポーランド共和国となる。国民の直接選挙による大統領選挙の導入を決定。1990年、国民投票の結果、大統領を直接選挙によってではなく総選挙後の国会で決めることになる。大統領選挙により、連帯のヴァウェンサ(ワレサ)が当選。

ポーランド民主化運動の主な人物

ポーランド国外で民主化運動を支援した人物

年譜

  • 1979年
  • 1980年
    • 7月1日 - 政府が食肉価格の引き上げを実施。
    • 7月2日 - 全国でストライキが発生、拡大する。
    • 8月14日 - グダンスクレーニン造船所で労働者約14,000人によるストライキ。
    • 8月16日 - グダンスクの21企業の代表者により「連合ストライキ委員会」結成。シチェチン、ヤシチシェンビェなどでも結成される。
    • 8月22日 - 副首相・ヤギェルスキを代表とする政府のストライキ対策委員会が連合ストライキ委員会と初交渉。
    • 8月30日 - シチェチンで政府代表団と連合ストライキ委員会が自由労働組合の公認などで合意。
    • 8月31日 - グダンスクで政府代表団と連合ストライキ委員会が自由労働組合の公認などで合意(グダンスク協定英語版)。全国で同様の協定が締結。
    • 9月1日 - グダンスクのレーニン造船所で連合ストライキ委員会を改組し、初の自由労働組合を結成。各地に広まる。
    • 9月17日 - グダンスクで自由労働組合の全国代表者会議が開催。独立自主管理労働組合「連帯」を結成。
  • 1981年
    • 9月 - ソ連が軍事演習ザーパド81を実施し、ポーランドを威嚇。
    • 12月13日 - 戒厳令が公布され、関係者の多くが拘束される。
  • 1982年
  • 1986年
  • 1987年
    • 2月1日 - 食料品、燃料などの価格の大幅引き上げ'(40%)を実施。全国でストライキ発生。
      • 政府と軍による暴力的な暴動鎮圧。
    • 8月31日 - 内相・キシチャクと「連帯」委員長・ヴァウェンサが公式会談、円卓会議の開催などで合意。
  • 1989年
    • 2月 - 4月 - 円卓会議が開催される。
    • 6月 - 自由選挙実施され「連帯」が圧勝。非共産党系政権が誕生する。(→1989年ポーランド議会選挙
    • 10月 - 新政権が経済自由化政策「バルツェロビッチ・プログラム」を発表。
  • 1990年
    • 12月22日 - レフ・ヴァウェンサが大統領に就任。
  • 1999年、NATOに加盟。
  • 2004年、EUに加盟。

脚注

注釈

  1. ^ a b 1983年から2004年までに9回訪問[5]
  2. ^ 従来からの議会(セイム)については、460議席の内、65%(299議席)を統一労働者党とその衛星政党に事前配分、残る35%(161議席)を自由選挙枠とした。そして新設されたセナト(上院)については100議席全てを自由選挙枠とした。
  3. ^ セイムは自由選挙枠の全161議席、セナトで100議席中99議席を連帯系が獲得(残り1議席は無所属)。連帯系当選者は選挙後、上下両院合同で「市民議会クラブ」(OKP) を結成した。

出典

  1. ^ Wojciech Roszkowski, Najnowsza historia Polski 1914-1945. Warszawa: Świat Książki, 2003, p. 236-240, 678-680, 700-701. ISBN 83-7311-991-4.
  2. ^ http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland/28216/Communist-Poland
  3. ^ (polish)”. W.icm.edu.pl (2006年5月18日). 2009年7月15日閲覧。
  4. ^ http://witryny.of.pl+(1985年9月14日).+“(english)”. W.icm.edu.pl. 2009年7月15日閲覧。
  5. ^ 教皇ヨハネ・パウロ2世の海外司牧訪問(1979~2004)

ポーランド民主化運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:34 UTC 版)

ユーリ・アンドロポフ」の記事における「ポーランド民主化運動」の解説

1980年のポーランド民主化運動発生後ポーランドヴォイチェフ・ヤルゼルスキ国防相(後に同国大統領務める)と面会1981年12月10日ポーランド連帯運動直面したアンドロポフは、スースロフヤルゼルスキと共にブレジネフ対しポーランドソ連軍派遣すべきでは無いと進言した。アンドロポフは、ソ連が「プラハの春」の二の舞演じることを恐れていた。したがってポーランド鎮圧にはヤルゼルスキ以下ポーランド軍これに当たることになり、これをもってブレジネフ・ドクトリン事実上終焉したもの捉えられるブレジネフ・ドクトリン正式に否定されたのはミハイル・ゴルバチョフ政権下での新ベオグラード宣言でのこと)。

※この「ポーランド民主化運動」の解説は、「ユーリ・アンドロポフ」の解説の一部です。
「ポーランド民主化運動」を含む「ユーリ・アンドロポフ」の記事については、「ユーリ・アンドロポフ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ポーランド民主化運動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ポーランド民主化運動」の関連用語

ポーランド民主化運動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ポーランド民主化運動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのポーランド民主化運動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのユーリ・アンドロポフ (改訂履歴)、ブロニスワフ・ゲレメク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS