ポズナン大公国とは? わかりやすく解説

ポズナン大公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 04:15 UTC 版)

ポズナン大公国
Wielkie Księstwo Poznańskie (ポーランド語)
Großherzogtum Posen (ドイツ語)
1815年 - 1848年
(国旗) (国章)

ポズナン大公国の位置(1848年)
公用語 ポーランド語
首都 ポズナン
大公
1815年 - 1840年 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
1840年 - 1849年 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
総督
1815年 - 1831年 アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ
面積
1849年 28,951km²
人口
1849年 1,350,000人
変遷
ウィーン会議(成立) 1815年6月9日
11月蜂起 1830年
1848年革命の失敗(併合) 1848年6月28日
現在 ポーランド
ポーランドの歴史
ピャスト朝
10世紀 - 1370年
 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年
クラクフ共和国
1815年 - 1846年
ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在
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ポズナン大公国ポーランド語: Wielkie Księstwo Poznańskieドイツ語: Großherzogtum Posen)は、1815年から1848年まで存在していた大公国。プロイセン王国の統制下におかれていた。都はポズナンにおかれた。元首である大公はプロイセン王が兼ねた。

歴史

1815年に成立し、プロイセン王国の支配下におかれた。当初はポーランド人に一定範囲での自由が保障されていたが、1830年の11月蜂起を受け、ポーランド人の諸権利が抑圧されるようになった。

1846年にも民族蜂起を図るが、事前にその動向が把握され、蜂起は失敗に終わった。この際、本来ならポズナンと連携して蜂起するはずであったクラクフが単独で蜂起し(クラクフ蜂起英語版ポーランド語版)、こちらも失敗に終わっている。ポズナンで捕らえられた運動家たちは、死刑や懲役刑の判決を受けて投獄されたが、1848年にベルリン3月革命が起こったため、彼らは釈放された。

プロイセン領におけるポーランドの民族運動は再び高揚し、ポズナン大公国のみでなく、ポモージェ(ポンメルン)地方や、シロンスク(シュレジエン)地方にも民族蜂起が広がった。しかし、これらの運動も鎮圧され、ポズナン大公国はその地位を奪われ、ポーゼン州(ドイツ語: Provinz Posen, ポーランド語: Prowincja Poznańska)として支配されることになった。





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