分割されたポーランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:35 UTC 版)
「ポーランドの歴史」の記事における「分割されたポーランド」の解説
詳細は「ポーランドの歴史 (1795年–1918年)(英語版)」を参照 18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドの衰退をみて1772年、1793年、1795年の三度に渡ってポーランド分割を行った。ロシアが旧リトアニア大公国とウクライナ、オーストリアがガリツィア(現ウクライナ西部・ポーランド最南部)を獲得し、西部はプロイセンが併合した。三度目の分割でポーランド王国の領土は完全に3国に併合し尽くされ、ポーランド王国は消滅する。最後の分割を前に1794年、タデウシュ・コシチュシュコ率いる蜂起軍が決起したのをはじめ、ポーランドではたびたび独立の回復を求める民族蜂起が起こったが、いずれも失敗に終わった。 ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下におかれた。 ポーランドの民族主義者たちは名ばかりの王国を真に独立させることを目指して運動と蜂起を繰り返すがロシア軍によって鎮圧された。ポーランドの独立を恐れたロシアは王国におけるポーランド語の使用を制限してロシア化政策を推し進めたが、それでも次第に独立を求めるポーランド人民族意識は高まっていった。現在のポーランドの国歌である、ドンブロフスキのマズルカ が作曲されたのはこのころである。
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