分割と編入の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:52 UTC 版)
「日本の市町村の廃置分合#合併と分割の両用」も参照 上九一色村は西八代郡に属していたが、行政のつながりでは富士河口湖町、富士吉田市などとともに富士五湖広域行政事務組合(事務局:富士吉田市下吉田六丁目)の構成村として富士北麓地域に多くを委託していた。電話の市外局番も吉田MAに属する0555区域となっている。その村域は御坂山地を境に二分され、南側の高原地帯には精進と本栖と富士ヶ嶺の各地区が、北側の山峡には梯と古関の両地区があった。 南北は国道358号で結ばれ、村役場は古関地区に置かれていたが、南北を結ぶバス路線はなく、住民の生活圏も、北部は甲府市や中道町や市川三郷町などとの、南部は富士北麓地域との結び付きが強かった。 官署の管轄も北部と南部では違い、例えば警察署は北部が市川署(市川三郷町)、南部が富士吉田署の管轄で、また保健所は北部が甲府保健所、南部が吉田保健所(富士吉田市)の管轄下にあった。さらに、南部には精進湖、本栖湖があることから、観光面でも富士河口湖町などと一体化していた。 こうした生活圏の違いを背景に、住民アンケートに基づいて北部は甲府市、中道町、芦川村との合併を、南部は河口湖町、勝山村、足和田村との合併を目指すことになり、2002年にそれぞれ法定合併協議会を設置した。 南部については、協議過程で上九一色村と河口湖町、勝山村、足和田村との間で意見がまとまらなかったため、3町村が2003年11月15日に合併して富士河口湖町となり、北部の甲府市などとの合併時に南部を分離して富士河口湖町に編入する方針となった。 だが、甲府市などの法定合併協議会では中道町が住民投票の結果を受けて離脱し、芦川村も同調して合併協議は崩壊した。さらに南部でも「富士河口湖町」の名称決定に不満を持つ住民による、合併の見直しを求める請願があり、これが議会で採択された後、村議会で全域での甲府市との飛地合併が検討されるようになった。 全村での甲府市との合併は、南部の住民の間で反対が根強く、2004年6月10日に集計された住民アンケートでは「甲府市との合併」が、「分割して、北部は甲府市と合併、南部は富士河口湖町と合併」を上回ったが、僅差であったために甲府市長は慎重な姿勢をとり、2004年11月28日に「甲府市との全域合併の是非」を問う住民投票を行った結果、反対多数となり、全域合併を断念した。 その後、南部については、村議会は鳴沢村との合併を打診したが、同村が合併しない方針を取り続けたために断念し、富士河口湖町との合併協議を再開することとなり、2005年1月4日に上九一色村長が富士河口湖町に合併協議の再開を申し入れて、2005年1月31日に富士河口湖町との法定協議会を設置した。 一方で、北部については甲府市との合併を引き続き検討したが、甲府市との合併協議からの離脱後、笛吹市との合併を検討していた中道町が住民アンケートの結果(「甲府市と合併特例法期限内に合併」が過半数)を受け、上九一色村北部とともに甲府市との合併を再協議することとなり、2005年2月2日に、甲府市・中道町・上九一色村北部で法定協議会を設置した。 両協議会ともに、合併期日を2006年3月1日とすることで合意し、細部の協議項目については過去の協議実績があったため、順調に協議が進み、2005年2月28日には甲府市・中道町・上九一色村北部、3月3日には富士河口湖町と上九一色村南部の合併協定調印式が行われた。双方の合併関連議案が3月16日までに関係各市町村議会で、7月6日には山梨県議会で可決され、7月29日に総務大臣が官報に告示したことにより、「平成の大合併」においては他に例を見ない「分合両用」による市町村分割が、正式に決定された。 双方とも、合併後の町字名に旧町村名は使わないこととなった。これにより、オウム真理教の事件により知れ渡った村の名前も、2006年2月限りで消えることとなった。
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