ウィーン会議による第4次分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 17:23 UTC 版)
「ワルシャワ公国」の記事における「ウィーン会議による第4次分割」の解説
1815年にいわゆるウィーン会議が開催された。会議には多くのヨーロッパ諸国と旧支配者層が出席したものの、ほとんどの意志決定権は列強国の手中にあった。この結果、プロイセンとロシアの両国に都合良いようにポーランドは分割され、オーストリアは1772年の第1次ポーランド分割で得た領域をほぼ維持することになった。 ロシアは、以前の3度にわたる分割で得た全ての領域を維持した上、ビアウィストクと1807年に得た周辺領域も獲得した。プロイセンは、第1次分割で得た領域を再び獲得し、第2次分割で得た領域の一部も「ポズナン大公国」として再び獲得した。この領域はおよそ29,000 km2の広さである。しかしプロイセンは、1807年に失った領土をすべて回復することは諦めなければならなかった。 ワルシャワ公国の一部だったクラクフやその周辺の地域は、3カ国の保護の下、半独立のクラクフ共和国となった。これらの地域の広さは1,164km2で、88,000人の人々が住んでいた。この都市は、1846年にオーストリアによって併合された。 最終的には、かつてのワルシャワ公国の大部分にあたる約128,000km2の地域が、ロシア帝国との同君連合の下、一般的にポーランド立憲王国と呼ばれる国家として再建された。そして、事実上ロシアに併合される1831年まで、建前上は自治を維持した。
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