ウィーン万国博覧会以降
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「ゴットフリード・ワグネル」の記事における「ウィーン万国博覧会以降」の解説
万博終了後、随行者の中から納富介次郎など23名が伝習生としてヨーロッパで学ぶことになり、ワグネルはその斡旋を受け持った。さらに博物館の準備調査や機器購入のために、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリスを歴訪している。1874年12月に帰国後、博覧会および化学工業、農林、食料について調査報告書を提出するとともに東京博物館創立の建議を行った。 また、博覧会の前に佐野常民に建議した工業技術教育の場として開成学校(南校が改称)に製作学教場が設けられ、ワグネルはその教師となった。さらに翌年には工部省と仕事を兼務し、1876年のフィラデルフィア万国博覧会の関連業務や勧業寮の仕事を行った。フィラデルフィア万博では日本委員12名のうち唯一の外国人として働き、123ページにわたる出品物解説書の大部分を作成している。 しかし、西南戦争による財政圧迫から1877年に製作学教場が廃止、勧業寮の事業も停止されて職を失う。この後1年間、ドイツ領事の委託を受けて七宝の研究を行っていた。翌1878年2月3日から3年間、ハー・アーレンス・ドイツ商会の仲介で京都府(槙村正直府知事)に雇われ、京都舎密局で化学工芸の指導や医学校(現・京都府立医科大学)での理化学の講義を行った。月給400円であった。 1881年、1月に着任した京都府の新知事北垣国道が官業の払い下げを進める中で舎密局なども売却され、2月に雇用契約が終了した。このため同年5月1日から5年半、東京大学理学部の製造化学の教師として勤め、1884年11月からは東京職工学校(現・東京工業大学)で窯業学の教師も兼任した。1886年に東京職工学校で陶器破璃工科が独立するとその主任教授に就任し、亡くなるまでこれを務めた。 この傍らで1883年から新しい陶器の研究に着手し、1886年に赤坂葵町に試験工場を設けて吾妻焼と命名した。さらに1887年には東京職工学校に設備を移し、名称を旭焼と改めた。 1890年に農商務省の委嘱で陶産地を巡回して指導した際、山口県でリウマチが悪化した。このため9月から一年間の休暇を取り、ドイツに一時帰国する。温泉などで療養した後1892年1月に帰日、勅任官の待遇で復職した。この際ゼーゲルコーンを日本に初めて紹介した。
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