ウィーン万国博覧会以降とは? わかりやすく解説

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ウィーン万国博覧会以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 23:41 UTC 版)

ゴットフリード・ワグネル」の記事における「ウィーン万国博覧会以降」の解説

万博終了後随行者の中から納富介次郎など23名が伝習生としてヨーロッパで学ぶことになり、ワグネルはその斡旋受け持った。さらに博物館準備調査機器購入のために、オーストリアドイツ、フランスイギリス歴訪している。1874年12月帰国後、博覧会および化学工業農林食料について調査報告書提出するとともに東京博物館創立建議行ったまた、博覧会前に佐野常民建議した工業技術教育の場として開成学校(南校が改称)に製作学教場設けられワグネルはその教師となった。さらに翌年には工部省仕事兼務し1876年フィラデルフィア万国博覧会関連業務勧業寮仕事行ったフィラデルフィア万博では日本委員12名のうち唯一の外国人として働き123ページにわたる出品解説書大部分作成している。 しかし、西南戦争による財政圧迫から1877年に製作学教場廃止勧業寮事業停止されて職を失う。この後1年間ドイツ領事委託受けて七宝研究行っていた。翌1878年2月3日から3年間、ハー・アーレンス・ドイツ商会仲介京都府槙村正直府知事)に雇われ京都舎密局化学工芸指導医学校(現・京都府立医科大学)での理化学講義行った月給400であった1881年1月着任した京都府新知北垣国道官業払い下げ進める中で舎密局なども売却され2月雇用契約終了したこのため同年5月1日から5年半、東京大学理学部製造化学教師として勤め1884年11月からは東京職工学校(現・東京工業大学)で窯業学の教師兼任した1886年東京職工学校陶器破璃工科独立するとその主任教授就任し亡くなるまでこれを務めた。 この傍ら1883年から新し陶器研究着手し1886年赤坂葵町試験工場設けて吾妻焼と命名した。さらに1887年には東京職工学校設備移し、名称を旭焼と改めた1890年農商務省委嘱で陶産地巡回して指導した際、山口県リウマチ悪化したこのため9月から一年間休暇取りドイツに一時帰国する。温泉などで療養した1892年1月帰日勅任官待遇復職したこの際ゼーゲルコーン日本初め紹介した

※この「ウィーン万国博覧会以降」の解説は、「ゴットフリード・ワグネル」の解説の一部です。
「ウィーン万国博覧会以降」を含む「ゴットフリード・ワグネル」の記事については、「ゴットフリード・ワグネル」の概要を参照ください。

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