京都舎密局
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明治3年(1870年)10月、大阪舎密局でハラタマに学び京都府に出仕した明石博高により中京区夷川通河原町東入に設立され同年12月開所した。石鹸・氷砂糖・ガラス・漂泊粉を始めとするさまざまな工業製品の製造指導や薬物検定を行った。舎密局自体は京都府の管轄であったが、明治8年(1875年)2月には文部省管轄の「京都司薬場」が併設され、オランダ人教師ヘールツ(ゲールツ)による理化学の講義が翌年8月の廃止まで行われた。舎密局は後任の外国人教師としてワグネルを招聘して化学校教師とするとともに七宝焼などの製造改良を指導させた(彼に師事したうちの一人が島津源蔵である)。 明治14年(1881年)に京都府が舎密局を廃止したさい、主宰者たる明石は設備の払い下げを受けしばらく経営を続けたが、明治17年(1884年)には高木文平に譲渡され「京都倶楽部」と改称された。 跡地には現在京都市立銅駝美術工芸高等学校が建つ。
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