技術と作風の変遷の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 07:57 UTC 版)
靖之の初期の品は、渦巻きなどの文様が全面に施され、主に不透明な釉薬が用いられた。明治9年からは茶金石を入れる手法が見られ、他の職人の品と比べて植線が少なく渦巻きなどの文様の間がより離れていた。明治10年前後には作風が大きく変化したことから、京都舎密局でのゴットフリート・ワグネルとの直接的または間接的な出会いが靖之に影響を与えたことは疑う余地がないと断じられている。 第二期の壺では、花鳥などの古風なモチーフが手の込んだ巻軸模様で囲まれており、上下にも同様の複雑な縁取りが施されるようになる。このような作風は明治28年の第四回内国博覧会頃まで見られる。その第四回内国博覧会で一等を与えられた作品は、靖之の第三期の作品の最初の1つである。伝統的な題材から絵画的な意匠への脱出、そして欠陥のない完璧な黒色釉の背景が讃えられた。 第三期の作風は明治28年から明治36年頃まで続き、この間に絵画的な図案を取り囲む巻軸模様は排除され、以降はほとんど施されなくなる。これにより、図案はより絵画的になり、全体の主な部分を占めるようになる。また、植線はより繊細になり、しかも重要性を増して、装飾の必要要素としてだけでなく、装飾の一部として使われるまでに到る。明治36年の第五回内国博覧会頃には靖之は七宝界の頂点に立つ名人として、思うままに製作することが可能となり、最後の作風が始まる。 明治36年以降の作品は、植線を墨のように表現して、七宝というより水墨画のような意匠を用いている。ただし、靖之の七宝制作は芸術活動ではなく、あくまで「輸出産業」であったため、注文があれば時期によらず求められた作風のものを作っていたであろうと考えられているまた、このような海外からの分類に対して国内でも異なる観点での分類が行われている。
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