大阪舎密局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:28 UTC 版)
幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったが、維新期の混乱により実現せず、明治元年(1868年)、後藤象二郎と小松帯刀の建言により、戦乱を避けて学校の設備を大阪に移転し、ここに理化学校を設立することが決定された。その年大坂城西の大手通旧京橋口御定番屋敷跡(現・中央区大手前三丁目1番)に新校舎が建設され、翌明治2年5月1日(1869年6月10日)旧開成所のオランダ人化学教師ハラタマを教頭として大阪舎密局が開校された。この時のハラタマの講演は『舎密局開講之説』として同年舎密局より刊行され、以降、ハラタマやリッテル(ハラタマの後任教頭)ら外国人教師による講義録が多数刊行され、化学の啓蒙に資した。 開校時の舎密局は大阪府の管轄であったが、明治3年(1870年)4月、大学(文部省の前身)に移管され、同年5月26日(6月24日)には学則を改正して「理学校」(理学所とも)に改編、ついで10月24日(11月27日)には大阪開成所(第三高等学校の源流の一つ)の分局となった。しかし明治5年8月3日(1872年9月5日)、学制公布にともなう大阪開成所の「第四大学区第一番中学」への改編により、舎密局以来の理化学教育は廃止された。跡地には明治8年(1875年)に大阪司薬所(大阪衛生試験所の前身)が設立された。
※この「大阪舎密局」の解説は、「舎密局」の解説の一部です。
「大阪舎密局」を含む「舎密局」の記事については、「舎密局」の概要を参照ください。
- 大阪舎密局のページへのリンク