大阪線計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 04:34 UTC 版)
小倉から北河内郡交野町(今の交野市)の私部を経て、玉造までの免許を1927年11月26日に申請し、1929年6月26日に免許取得した。 予定区間:大阪玉造 - 宇治小倉間35.2km 予定ルート:玉造 - 諸堤 - 四宮 - 西長尾 - 上津屋 - 小倉 ※高速運転を行うため、駅の設置数を限ることにしていた。しかし、このころ相次ぎ競願路線が申請される。1つは南海系とみられる畿内電鉄で、根津嘉一郎はじめ京阪神有力者84名が発起人となって大阪天王寺 - 京都七条、放出 - 玉造間で申請、また森町(森ノ宮) - 四條畷 - 田原 - 奈良下三条通に至る東大阪電鉄である。それ以外にも京阪電気鉄道が省線片町線を電化し、省線奈良線新田 - 長尾を結ぶ路線、大阪電気軌道も、大阪天満橋 - 四條畷 - 生駒隧道大阪入口に至る四条畷線の路線免許を有し、多くの路線が入り乱れることとなる。奈良電は、長田桃蔵はじめ沿線17町村などが陳情するが、畿内電鉄や東大阪電気鉄道への免許許可が優勢であることがわかり、免許却下に向けて万全を期すため東大阪電気鉄道の株の半数にあたる12万株を30万円で発起人総代田中元七から株式引受け権を譲り受け、東大阪電気鉄道が免許されれば四條畷より宇治へ別線を出願できるように準備を進めた。しかし、東大阪電気鉄道への免許と同時に奈良電気鉄道へも予想されなかった免許をされることになり、免許交付により東大阪電気鉄道の経営関与は不要になり株式引受け権は、1株10円総額120万円で京阪電気鉄道に譲渡され、東大阪電気鉄道は、1929年7月18日に創立総会を開き、太田光凞が社長に、長田桃蔵が取締役に就任した。だがこの東大阪電気鉄道では五私鉄疑獄事件に巻き込まれる。なお、当免許は近畿日本鉄道合併後免許更新されず1967年に失効している。
※この「大阪線計画」の解説は、「奈良電気鉄道」の解説の一部です。
「大阪線計画」を含む「奈良電気鉄道」の記事については、「奈良電気鉄道」の概要を参照ください。
- 大阪線計画のページへのリンク