来日・司薬場開設
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「アントン・ヨハネス・ゲールツ」の記事における「来日・司薬場開設」の解説
ゲールツは、オランダのオウデンダイク(Oudendijk)の薬業家に生まれた。薬学、理化学、植物学に精通していたゲールツは陸軍薬剤官となり、ユトレヒトの陸軍医学校で教鞭をとっていた。1869年(明治2年)7月、ゲールツが26歳のとき、日本政府の招請により来日し、長崎医学校(長崎大学医学部の前身)に着任し、予科の物理、化学、幾何学等の講義を担当する。当時の長崎医学校は長與專齋が学頭を務め、オランダ人医師マンスフェルトが教頭と付属病院の医師を兼務していた。 1873年(明治6年)、長崎税関の委嘱により輸入キニーネの分析を行ったゲールツは、鑑定報告に添えて粗悪な輸入薬品の取締りと薬品試験所の必要性を訴える意見書を長崎税関長に提出し、長崎税関長がこれを政府に取り次いだ。岩倉使節団の一員として渡欧し、帰国後は文部省医務局長に就任していた長與專齋はゲールツの意見をとりあげ、1874年(明治7年)3月27日、東京日本橋馬喰町に、永松東海を場長、ドイツ人のマルティンを監督として東京司薬場を開設し、薬品試験業務が開始された。この司薬場が後の国立衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)の源流となる。ゲールツは1875年(明治8年)2月に設置された京都司薬場の薬品試験監督に任命され、また、同じ構内にあった京都舎密局で薬学講習を行った。なお、京都司薬場は同時期に設置された大阪司薬場に近かったため1876年(明治9年)に廃止され、長崎と横浜に司薬場が設置されることになった。ゲールツは1877年(明治10年)5月、当時輸入薬品が大量に取引されていた横浜に開設された横浜司薬場の薬品試験監督に任命される。その後、1877年から1879年(明治12年)にかけてコレラが日本で大流行した際、伝染病予防規則の制定を促すなど衛生行政の基礎確立に寄与した。
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