来日・司薬場開設とは? わかりやすく解説

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来日・司薬場開設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:36 UTC 版)

アントン・ヨハネス・ゲールツ」の記事における「来日・司薬場開設」の解説

ゲールツは、オランダのオウデンダイク(Oudendijk)の業家に生まれた薬学理化学植物学精通していたゲールツは陸軍薬剤官となり、ユトレヒト陸軍医学校教鞭とっていた。1869年明治2年7月、ゲールツが26歳のとき、日本政府招請により来日し長崎医学校長崎大学医学部の前身)に着任し予科物理化学幾何学等の講義担当する当時長崎医学校長與專齋学頭務めオランダ人医師マンスフェルト教頭付属病院医師兼務していた。 1873年明治6年)、長崎税関委嘱により輸入キニーネ分析行ったゲールツは、鑑定報告添えて粗悪な輸入薬品取締り薬品試験所の必要性訴え意見書長崎税関長に提出し長崎税関長がこれを政府取り次いだ岩倉使節団一員として渡欧し帰国後は文部省医務局長に就任していた長與專齋はゲールツの意見とりあげ1874年明治7年3月27日東京日本橋馬喰町に、永松東海場長ドイツ人マルティン監督として東京場を開設し薬品試験業務開始された。この司場が後の国立衛生試験所現国医薬品食品衛生研究所)の源流となる。ゲールツは1875年明治8年2月設置され京都場の薬品試験監督任命されまた、同じ構内にあった京都舎密局薬学講習行った。なお、京都場は同時期に設置され大阪場に近かったため1876年明治9年)に廃止され長崎横浜に司場が設置されることになった。ゲールツは1877年明治10年5月当時輸入薬品大量に取引されていた横浜開設され横浜場の薬品試験監督任命されるその後1877年から1879年明治12年)にかけてコレラ日本大流行した際、伝染病予防規則制定促すなど衛生行政基礎確立寄与した

※この「来日・司薬場開設」の解説は、「アントン・ヨハネス・ゲールツ」の解説の一部です。
「来日・司薬場開設」を含む「アントン・ヨハネス・ゲールツ」の記事については、「アントン・ヨハネス・ゲールツ」の概要を参照ください。

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