来日以前
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「コルネリス・ファン・ドールン」の記事における「来日以前」の解説
1837年2月9日にオランダ東部のヘルダーラント州ブルメンで生まれた。改革長老教会の牧師である父のピーテル・W・ファン・ドールン(Pieter W van Doorn)と、母のコルネリア・J・H・ファン・ドールン(Cornelia J. H. van Doorn)の第2子で、5人兄弟だったとされる。当時、彼の生まれたハル地区 (nl:Hall) は人口およそ数百名の農村だった。 ファン・ドールンは小学校を卒業後、ユトレヒト工業学校(現在の日本の工業高校に相当)に6年間通った。続いて1855年に18歳でデルフトの王立土木工学高等専門学校(現・デルフト工科大学)の聴講生となっている。この頃、公務員である技官として働いていたと考えられている。成績は優秀で1860年に「技師」(Ingenieur)の免状を送られ、国から技術官僚として採用された。その後、水政省の命令でオランダ領東インドのジャワ島に派遣され、技術助手として鉄道建設などに携わった。 1863年にオランダに帰国してからはアムステルダムとデンヘルダー間の鉄道建設に従事した後に職を辞し、マーストリヒトの高等学校で数学の教師となった。しかし1865年に政府技官に復職し、今度はアムステルダムとデンヘルダー間の運河開削に関わった。この際、アムステルダムでヨハニス・デ・レーケと共に閘門建設を行ない、後に彼を日本に招聘している。
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来日以前
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「ヘンリー・S・パーマー」の記事における「来日以前」の解説
1838年、イギリス領インド帝国のバンガロールで英印軍参謀本部付大佐・ジョン・フレーク・パーマーの三男として生まれた。イングランドのバースで教育を受け、1856年に王立陸軍士官学校に入学、工兵中尉に任じられる。 1858年には、カナダブリティッシュコロンビア州調査団の一員として派遣され、調査事業に加えて道路工事の監督に当たった。1863年に15歳の妻と結婚してイギリスへ帰国。帰国後はイギリス地形測量局に勤務、科学者としても知られるようになる。1874年からはイギリス領のニュージーランドやバルバドスに派遣され、1878年に赴任した香港では、広東水道と香港水道を設計した。
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