来日以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 18:16 UTC 版)
「コルネリス・ファン・ドールン」の記事における「来日以降」の解説
1872年2月にファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を結んだ。明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。まず同年5月に、利根川と江戸川の改修のため利根川全域を調査した。この際、日本初の科学的な水位観測を行ない、両河川の分流点にやはり日本初の量水標を5月4日に設置した。7月には淀川、その後は信濃川、木曽川も視察している。さらに政府から求められた大阪港の築造のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルらの技師をオランダから招聘し、翌1873年に彼らが来日するとリーダーとしての役割を担った。 同年3月25日には木津川支流を調査するなど精力的に業務をこなし、1874年には内務卿・大久保利通によって月給を500円から600円に増額されている。これは当時の閣僚と同程度の金額である。契約期間の延長を前提とし、翌1875年にはオランダに一時帰国した。ファン・ドールンは1年後に再び来日し、大久保の立案した1878年の土木7大プロジェクトの実現のため、安積疏水や野蒜築港の事業計画を立案した。 安積疏水の事業においては、奈良原繁や内務官僚の南一郎平の優れた働きもあり、他国の大規模な灌漑事業との比較から詳細な計画が練られ、大きな成果を収めた。なお、開削案には 斉木峠 三森峠 御霊櫃峠 沼上峠 の4つがあったが、現地での調査から沼上峠開削案が最適であると報告している。 一方、野蒜築港については明治天皇の東北巡幸の際に各県の県令から要望があったため、1876年にはファン・ドールンが現地に派遣されている。その後1878年に工事が始まったが、完成の1882年より前の1880年2月にファン・ドールンは契約を終えて帰国した。1885年に台風で壊滅的な被害を受けて野蒜築港は廃止され、後に廣井勇はファン・ドールンの設計を厳しく批判している。このため、自ら設計した野蒜築港の工事中に帰国したのは、設計の不備に気付き完成の確信が持てなかったためではないかとも云われている。一方、当時は古市公威らヨーロッパで土木工学を学んだ人々が続々と帰国しており、財政上の理由もあって多くのお雇い外国人が契約を更新されなくなった時期でもあったため、特別な事情はないという見方もある。
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