あさか‐そすい【安積疎水】
安積疏水
![]() 安積疏水十六橋水門 |
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疏水の概要 | ||
■疏水の所在 郡山市、須賀川市、本宮市、大玉村、猪苗代町の3市1町1村 地区面積 約9,000ha 組合員数 約9,000名 ■所在地域の概要 福島県のほぼ中央部に広がる県内有数の水田農業地帯である。中でも現在中核都市である郡山市は、明治初期までは年間雨量が1,200ミリにも満たない荒涼とした安積原野で、約20kmの西部に広がっていた猪苗代湖から引いた安積疏水が、現在の人口約34万人の規模を持つ経済県都と呼ばれるほどの都市へと発展し今日の繁栄の基礎が築かれた。また、米の生産量も全国有数の規模を誇っている。 ■疏水の概要・特徴 ◎明治政府の士族授産と殖産興業の方策により、全国9藩士族をこの地に入植させ開墾を進めると同時に、猪苗代湖より分水嶺を越して水を導く猪苗代湖疏水事業は、明治12年着工、3年間で幹支線水路130kmを開削した。農業用水の他、明治31年水路の落差を利用し、紡績会社が水力発電所を建設して郡山まで24kmの長距離送電に成功し、工業・商業発展の礎となった。人口の増加により飲料水が不足したため明治41年から疏水を郡山市の上水道用水としても使用している。 ◎国営新安積開拓建設事業(S16〜S41)で造成された新安積幹線用水路の改修及び小水力発電施設の新設を行い、維持管理の軽減と用水不足の解消を図るとともに、併せて関連事業により末端用水路の改修及びほ場整備を行い、水田の汎用化や機械作業体系を確立することにより、地域農業の生産性向上と農業経営の安定を図る目的で国営新安積地区かんがい排水事業として平成9年度に工事着手し、一期事業は平成16年度に完了した。また同年4月より小水力発電が供用開始され、クリーンエネルギーとして環境に優しく地区内の土地改良施設に電力を供給し、維持管理の軽減が図られている。二期事業については、平成20年度完了に向けて順調に事業執行されている。 |
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安積疏水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/09 15:02 UTC 版)
座標: 北緯37度28分12秒 東経140度17分46秒 / 北緯37.470068350373076度 東経140.29610510617192度
安積疏水 | |
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安積疏水の水路図(赤の実線)。
赤の破線は新安積疏水。 |
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特長 | |
全長 | 143 km (89マイル) |
現状 | 運用中 |
運営者 | 安積疏水土地改良区 |
歴史 | |
主要技術者 | ファン・ドールン |
建設決議 | 1879年 |
運用開始 | 1882年 |
拡張 | 1942年 |
地理 | |
方向 | 安積原野(郡山盆地)[1] |
始点 | 猪苗代湖 [1] |
終点 | 阿武隈川[1] |

安積疏水(あさかそすい)は、猪苗代湖より取水し、福島県郡山市とその周辺地域の安積原野に農業用水・工業用水・飲用水を供給している疏水である[1][2]。水力発電にも使用される。安積開拓の一環であり、当初は猪苗代湖疎水と呼ばれていた[3]。
那須疏水(栃木県那須野が原)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖 - 京都市)と並ぶ日本三大疏水の1つに数えられている。土木学会選奨土木遺産、日本遺産、かんがい施設遺産に選定。
現在では、幹線延長143km、受益面積9920ha、利用組合員約一万戸、一日取水量33万㎥に達している[2]。現在の郡山市は平成の大合併により市域を広げた新潟市が誕生する前は米穀生産量日本一の市であり、また東北二位の工業都市である。
歴史
建設経緯
年間雨量が1,200mmにも満たない当地は、疏水が引かれる前は「安積三万石」[1]の地であり、阿武隈川に向かって傾斜して水利が悪い丘陵地帯であったこともあり、荒涼とした安積原野となっていた。安積原野を流れる五百川、藤田川、逢瀬川、笹原川などの河川は流域面積が小さく、安積原野にあるため池群も流入河川がなく旱魃の影響を受けやすく、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を取る入会地しか用途がなかった。
一方、明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり[4]、その対策として東北地方において安積原野開拓が脚光を浴びるようになる[5]。1878年(明治11年)4月には、大久保利通内務卿は地方官会議に安積開拓の計画を提案したが、その翌月には暗殺されてしまう[5]。
その遺志を継いだ伊藤博文内務卿らにより、12月にはお雇い外国人のオランダ人技師ファン・ドールンを現地に派遣し、三日間で猪苗代湖から安積野原野一帯の調査を行い、その調査の結果、安積疏水の開削を政府に決断させた[5][4]。
1879年(明治12年)、国直轄の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整して水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設され、隧道・架樋等、延べ85万人の労力と総工費40万7000円(現在に換算して約400億円)によって、130kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成した[6]。
開通後
1882年(明治15年)10月1日、岩倉具視を招き通水式を挙行[4][5]。灌漑区域面積は1885年の時点で約2928haと広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた[2]。1886年には、事業主体が政府から福島県に移管された[2]。
1889年には、明治政府の重鎮として疏水事業の実現に尽力した大久保利通を祀る「大久保神社」が郡山市郊外に建立された(社殿・鳥居はなく記念碑のみ)[7]。
1898年(明治31年)には郡山絹糸紡績株式会社(現:日東紡績)により、疏水に沼上水力発電所が設置され[2]、その電力を利用した製糸業が発達した[8]。また、1912年からは郡山市の飲用水としても利用して、当地の人口増加を支えた[2]。
新安積疏水
1942年ごろより、食料増産を目的とした新安積開発計画が活発となり、新安積疏水の一部建設が進められるが、太平洋戦争の悪化のため計画はいったん中止となってしまう[9]。
終戦後、再び国内の食糧事情悪化が問題視され、新安積疏水計画が再開[10]。1946年10月5日に起工式が行われる[11]。 1947年には昭和天皇の戦後巡幸の行幸先の一つとして選ばれた[12]。1949年には第一期工事が終了、1961年までには全路線が完成した[13]。その後も追加工事がなされ、全計画は1965年に完成した[2]。
2002年に疏水の水路は土木学会選奨土木遺産に選ばれた[14]。2016年には、日本遺産の一つとして「未来を拓いた「一本の水路」~大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代~」が文化庁により選ばれた[15]。また同年、かんがい施設遺産に登録。
水力発電
猪苗代湖と安積疏水の落差(約300m)を利用した沼上発電所が建設され[2]、日本で初めての高圧送電を利用した送電が郡山市内まで行われ、製糸業はじめ紡績・繊維産業の発展に貢献した。その他に竹ノ内発電所、及び丸守発電所の計3つの発電所があった[2]。その後、これらの電力会社は電力国家統制のため東京電力に合併された[2]。
2004年9月には逢瀬町多田野で、落差90m、最大出力2230kWの疏水管理用発電所が稼動を開始した。年間では777万kWhの発電能力があり、土地改良区の経費節減に役立てるほか、売電利益分を補助金を支出した国に返却する予定。
水系名 | 河川名 | 発電所名と 創設者 |
最大出力 (kW) |
発電機 台数 |
運転開始年 | 備考 |
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阿賀野川 | 猪苗代湖 阿武隈川 五百川 |
沼上(ぬまがみ) 郡山絹糸紡績[2] |
2,100 | 2 | 1899年(明治32年)6月 | ![]() 日本初の長距離送電で有名な東京電力リニューアブルパワー沼上発電所。左側の滝は猪苗代湖より流れ落ちる安積疏水 |
阿武隈川 | 五百川 | 竹ノ内(たけのうち) 郡山電気[2] |
3,700 | 1919年(大正8年)7月 | ![]() 東京電力RP竹ノ内発電所。(取水口は沼上発電所直下にある) |
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五百川 北川 日沢川 |
丸守(まるもり) 郡山電気[2] |
5,900 | 3 | 1921年(大正10年)10月 | ![]() 東京電力RP丸守発電所。ここから熱海頭首工まで用水は五百川を流れ下る。(取水口は竹ノ内発電所直下にある) |
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多田野川 | 安積疏水管理用発電所 | 2,230 | 2 | 2004年(平成16年)4月 | 安積疏水管理用発電所 |
年表

- 1873年(明治6年) - 中條政恒の呼びかけにより[4]、郡山に「開成社」が結成される。
- 1879年(明治12年)5月 - 政府が安積野原野開墾事業、安積疏水工事の開始を許可
- 1880年(明治13年)11月 - 十六橋水門完成
- 1882年(明治15年)8月 - 試験通水
- 1883年(明治16年)6月 - 安積疏水灌漑開始
- 1899年(明治32年)6月 - 郡山絹糸紡績会社発電のため沼上発電所運転開始
- 1908年(明治41年)2月 - 郡山上水道用水として疏水を給水
- 1919年(大正8年)7月 - 竹ノ内発電所運転開始
- 1921年(大正10年)10月 - 丸守発電所運転開始
- 1943年(昭和18年)年12月13日 - 新安積疏水計画の起工式が行われる[17]。しかし戦時中により幾度も中止となる。
- 1950年(昭和25年)3月 - 新安積疏水計画が竣工。[17]
- 1983年(昭和58年) - 深田調整池供用開始
- 2004年(平成15年)9月 - 逢瀬町多田野の疏水管理用発電所運転開始
ギャラリー
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安積疏水幹線水路
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安積疏水設計土木技師ファン・ドールン
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旧水路の山潟取水口で使用された揚水ポンプ
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猪苗代湖畔の旧水路
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奥羽山脈山越えの旧水路・沼上隧道
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安積疏水の一部として利用している五百川から取水して疏水幹線水路に用水を分配する熱海頭首工
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安積疏水幹線水路熱海町
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第一分水路取水口 [19]
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郡山市内住宅地に残る末端水路
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深田調整池
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深田ダム記念碑
脚注
- ^ a b c d e 安積疏水土地改良区 1955, p. 3.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 吉越昭久「猪苗代湖の開発」『奈良大学紀要』第10巻、1981年、69-77頁、NAID 120002643841。
- ^ 「「安積疏水史」を別の角度からみる : 山田寅吉と土質力学」『土と基礎 : 地盤工学会誌』第41巻第6号、1993年、1-4頁、 NAID 110003972370。
- ^ a b c d 宗像四郎「安積疏水通水 100 周年と中條政恒」『農業土木学会誌』第51巻第5号、1983年、451-455頁、 NAID 130004288162。
- ^ a b c d 安積疏水土地改良区 1955, p. 4.
- ^ 安積疏水百年史編さん委員会 1982, p. 70.
- ^ 【明治150年】第5部 地方(4)福島 生きる開拓精神/命をつなぐ 大久保の遺志『産経新聞』朝刊2018年12月31日(3面)2019年1月27日閲覧。
- ^ 安積疏水土地改良区 1982, p. 303.
- ^ 安積疏水土地改良区 1955, p. 415.
- ^ 安積疏水土地改良区 1982, p. 425.
- ^ 安積疏水土地改良区 1955, p. 425.
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、428頁。 ISBN 978-4-487-74410-7。
- ^ 安積疏水土地改良区 1982, p. 491.
- ^ “土木学会 平成14年度選奨土木遺産 安積疏水関連施設”. www.jsce.or.jp. 2022年6月8日閲覧。
- ^ 未来を拓いた「一本の水路」~大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代~郡山市ホームページ(2019年1月27日閲覧)。
- ^ 郡山の文化財ガイダンス 安積疎水の開通に尽力した大久保利通を称え建立された「大久保神社」
- ^ a b “第58回 新安積疏水 穀倉地帯を作る”. 鹿島建設. 2024年7月閲覧。
- ^ 北緯37度29分30秒 東経140度09分08秒 / 北緯37.491634276366575度 東経140.1521501951732度
- ^ 北緯37度28分12秒 東経140度17分46秒 / 北緯37.470068350373076度 東経140.29610510617192度
- ^ 農業土木遺産をたずねて (PDF) の挿絵に使用されている。
参考文献
- 安積疏水百年史編さん委員会 編『安積疏水百年史』安積疏水土地改良区、1982年10月。doi:10.11501/11993178。
- 安積疏水土地改良区 編『安積疏水の概要』安積疏水土地改良区、1955年。doi:10.11501/2477326。
関連項目
- 郡山市開成館と開成山公園
- 疏水百選
- 深田ダム
- 日橋川
- せせらぎこみち
- 中條政恒
- 阿部茂兵衛
- 宮本百合子
- 日本遺産(未来を拓いた「一本の水路」―大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代―)
- かんがい施設遺産
外部リンク
- 安積疏水土地改良区
- 安積疏水 - 郡山市開成館
- 未来を拓いた「一本の水路」 - 文化庁 日本遺産ポータル
- 明治の礎・安積疏水(水土の礎 (社)農業農村整備情報総合センター)
安積疏水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 15:59 UTC 版)
詳細は「安積疏水」を参照 明治時代に入り、東北地方は戊辰戦争の混乱を経て明治政府の管轄下に入った。政府は民心の安定と富国強兵、さらに「四民平等」の身分制度改定による士族の不満を逸らすために北海道をはじめ全国で盛んに開拓事業を行おうとしていた。 阿武隈川左岸部に広がる安積原野(福島県郡山市)は広大な土地であったが、極めて水の便が悪く荒野として放置されていた。だがこの原野の開発は東北南部にとって大いに有益であり、当時福島県典事であった中条昌恒は安積台地の開発を図るため1873年(明治5年)に大槻原開拓を開始し、その拠点として1874年(明治6年)に「開成館」を設立した。 一方明治天皇の行幸を機に安積原野は大規模な農業経営が可能な土地として中央も注目、本格的な農地開墾事業に内務省が乗り出すこととなった。内務卿・大久保利通は安積原野の用水供給を図るべく阿賀野川の上流に位置する猪苗代湖からの分水が技術的に可能かどうかを調査することとなり、オランダから招聘されたファン・ドールンに用水の実施計画調査を1878年(明治11年)に命じた。ファン・ドールンの調査によって用水路建設が可能であると判断した政府は、翌1879年(明治12年)に疏水開削起工式を挙行した。日本で初となる国直轄の農業水利事業(安積疏水事業)の始まりである。 計画では猪苗代湖の水量を調節し安定した水量を確保することが必要となった。このため猪苗代湖から流出する唯一の河川(日橋川)の吐き口で、古くから交通・軍事の要衝であった戸の口十六橋付近(会津若松市戸の口)に十六橋水門を建設して猪苗代湖をダム化し、耶麻郡猪苗代町上戸に取水口を設置して阿武隈川に繋がる支流、五百川へ分水界を跨いだ流路変更を行った。そして総延長52.0キロメートル 、分水路延長78.0キロメートル の水路を安積原野に張り巡らせて灌漑を行った。この安積疏水建設に伴い、工事に携わる旧士族の定住募集を行ったところ、会津藩・二本松藩・米沢藩・棚倉藩といった奥羽越列藩同盟参加藩出身の士族のみならず久留米藩・土佐藩・松山藩・岡山藩・鳥取藩といった西日本の諸藩出身士族も参加・定住した。その数は当時の郡山市人口約5,000人の3分の1を占める約2,000人であったといわれる。 総工費40万7千円(現在の貨幣価値に直すと約400億円)、従事人員延べ約85万人、施工期間3年の時を経て安積疏水は1882年(明治15年)に通水、完成した。この安積疏水によって今まで不毛の荒野であった安積原野約 3,000ヘクタール余りが肥沃な農地に生まれ変わり、郡山発展の礎を築いた。1886年(明治19年)に管理が福島県へ移管された後も安積疏水はさらに利用され、1889年(明治32年)に日本初となる長距離高圧送電設備を備えた水力発電所・沼上発電所(認可出力:300キロワット)を稼動させた他、1912年(明治45年)には郡山市の上水道水源にも利用されるようになった。1947年(昭和22年)には農林省(現・農林水産省)による「国営新安積開拓建設事業」の一環として取水口が改良され上戸頭首工が建設され、疏水の取水能力が強化された。現在は約 9,000ヘクタールの農地を潤している。 このように福島県の発展に大きく寄与した安積疏水は、栃木県の那須疏水(那珂川)、京都府の琵琶湖疏水(京都疏水。淀川)と共に「日本三大疏水」としてその業績を称えられている。
※この「安積疏水」の解説は、「阿賀野川」の解説の一部です。
「安積疏水」を含む「阿賀野川」の記事については、「阿賀野川」の概要を参照ください。
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