明正井路
![]() 第一拱石橋 |
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疏水の概要 | ||||
■疏水の所在 大分県豊後大野市の西部、緒方町と清川町の一部の地域 450ha ■所在地域の概要 大分県の南西部に位置する豊後大野市は、本年3月31日、7町村が合併して誕生した人口4万5千人の新市である。県都大分市まで約1時間の利便性からベッドタウンとしての開拓、企業誘致が進み人口増加・産業の活性化が見込まれる。本地域は、中山間地に位置するが本疏水の恵により旱ばつ時でも水不足に陥ることはなく、また、耕作放棄地もほとんど見られない。 ■疏水の概要・特徴 本疏水は、農村救済と水利開墾を目的に県農業技師矢島義一氏が指揮し大正13年に完成した。始めに竹田市出会の制水門・隧道・井路42kmが建設され、それまで荒廃していた農村は開拓が進み耕作地が増加し豊かな大地に生まれ変わった。今では県西南部の代表的な農作地帯として大分県農業の一翼を担っている。 大正3年(1914)3月、耕地整理組合が設立された。時代は明治から大正に移り変わる時期であったことから「明正」と名づけられた。 |
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明正井路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/20 08:43 UTC 版)
明正井路(めいせいいろ)は、大分県竹田市から豊後大野市までをかん水する用水路である。大野川水系緒方川に架かる水路用石造アーチ橋、明正井路第一拱石橋(めいせいいろだいいちこうせききょう)で有名。
概要
明正井路は、緒方川及び、神原川並びに、1953年(昭和28年)に竣工した補水線(大野川)の3つの川から取水され、緒方町と清川村の2,323haの地域の約717haにわたる水田を灌漑する水路で、その総延長は175km(幹線48km、用水路127km)に及ぶ。起伏が激しいため、17基もの水路橋を有する大規模な灌漑施設である。
江戸末期にすでに構想があったが、資金難の為実施できず。その後明治に入るも日清戦争により計画は中止。明治末期に耕地整理測量設計の認可を受け、測量及び、設計を開始した。着工されたのは大正時代に入ってからで、1917年(大正6年)に着工した。第一次世界大戦の中、資材費の高騰などで、何度も資金不足になり、責任を感じた主任設計技手が自刃する事件も起き、技手は「速やかに疎水を荒平溜池に流したし」と言い残したといわれている。その主任技手の栄光と功績を称え、石碑を始め、土地改良区史に水谷たけ子による漫画も作成されているほど尽力した。大変な苦難を乗り越えて1924年(大正13年)約7ヶ年の歳月を経て完成した。「明正」の名は、計画及び工事が明治時代から大正時代にわたって行われたことに由来する。
データ
- 主任設計者:矢嶋義一(大分県農業技手)
- 管理者:明正土地改良区
- 文化財等:土木学会選奨土木遺産
外部リンク
- 国土交通省 九州地方整備局|明正井路一号幹線一号橋
- 明正井路第一拱石橋(大分県竹田市)
- 明正井路(大分県) 農業農村の整備~九州農政局整備部~
- 「明正井路開削と矢島義一」、水谷たけ子名義、大分県、明正井路2002年 発行 明正土地改良区保存
明正井路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 03:01 UTC 版)
「明正井路一号幹線一号橋」の記事における「明正井路」の解説
明正井路は、緒方川及び、神原川並びに、1953年(昭和28年)に竣工した補水線(大野川)の3つの川から取水され、緒方町と清川村(現豊後大野市)の2,323haの地域の約717haにわたる水田を灌漑する水路で、その総延長は175km(幹線48km、用水路127km)に及ぶ。起伏が激しいため、17基もの水路橋を有する大規模な灌漑施設である。 江戸末期にすでに構想があったが、実際に着工されたのは大正時代に入ってからで、1号、2号幹線は1919年(大正8年)に竣工した。「明正」の名は、計画及び工事が明治時代から大正時代にわたって行われたことに由来する。
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