幸野溝
![]() あさぎり町岡原地区「ホタルの里」 |
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疏水の概要 |
■疏水の所在 熊本県の南部、日本三大急流の一つ球磨川の上流以南に位置し、湯前町外2町の1,387ha ■所在地域の概要 九州山脈に囲まれた球磨盆地にある。盆地中央を流れる球磨川と周囲の山々に、囲まれたこの地域は、農業が基幹産業で経営形態としては水稲を基幹作物として、畜産(肉用牛・酪農)、施設野菜、工芸作物等を併せた複合経営が行われています。 ■疏水の概要・特徴 幸野溝は、今から309年前、当時の相良藩にとって財政のたて直しのため新田開発が極めて重要な問題であった。そこで元禄9年(1696)相良藩主の命をうけた相良藩士高橋政重(当時47才)は、幸野溝開削に着手し、幾度の困難に直面したが、10年を経た宝永2年(1705)政重と村人たちの血のにじむような努力によりついに「幸野溝」は完成した。 現在は、昭和33年市房ダムの建設により取水樋門及び水路の改修が行われ、延長15,412m暗渠 (隧道)の総延長2,524m、かんがい面積1,387haで組合員数1,592名、湯前町、多良木町、あさぎり町の3町を受益している。又、水田はもとより、防火用水など住民生活の一部となっています。 |
幸野溝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/14 08:12 UTC 版)
幸野溝(こうのみぞ)は、熊本県球磨郡湯前町から錦町までの水田1,900ヘクタールを潤す球磨地方を代表する農業用水路。
概略と歴史
熊本県球磨郡湯前町馬返で球磨川から取水し、多良木町を通って末端はあさぎり町の神殿原(こうどんばる)に至る灌漑用用水路。着工は元禄9年(1696年)と翌年とする説もある。工事は球磨川の洪水、相良藩の財政窮乏による資金不足、当時の土木技術水準により困難をきわめた。役人高橋七郎兵衛政重が、1696年(元禄9年)から10年がかりで、1705年(宝永2年)に完成させた。百太郎溝の開削とともに、上球磨地方の水田化が著しく進んだ。しかし、扇状地にはまだ広い原野が残っていた。
約250年後の1958年に市房ダムの建設に関連して、本格的な県営球磨川南部地区土地改良工事が着工。市房ダムの下流部に作られた幸野ダムの水を取り入れ、受益面積は3500ヘクタールに及ぶ。完工は1968年。コンクリート張りの近代的水路に生まれ変わった。
2016年(平成28年)、「幸野溝・百太郎溝水路群」として国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録された[1]。
脚注
- ^ “「世界かんがい施設遺産」に 岩手県一関市など14施設登録”. JAcom 農業協同組合新聞 (農協協会). (2016年12月9日) 2020年7月21日閲覧。
参考文献
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- 『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、342頁。
外部リンク
固有名詞の分類
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