拾ヶ堰とは? わかりやすく解説

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拾ヶ堰

拾ヶ堰
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拾ヶ堰
水土里の路ウォーキング
(安曇野の田園と拾ヶ堰疏水ウォーキング)
拾ヶ堰
拾ヶ堰 疏水概要
疏水所在
長野県安曇野市のうち、旧豊科町、旧堀金村、旧穂高町周辺地域 1,000ha

所在地域の概要
長野県のほぼ中央松本盆地北西位置し西側雄大な北アルプス山並み三方梓川穂高川犀川配す自然豊かな地域安曇平、あるいは安曇野呼ばれている。

疏水概要・特徴
拾ヶ堰は、文化十三年(1816複合扇状地中央を約570m の等高線沿って横切り約1000haの水田潤す安曇野一の大水路 である。長さ15km 勾配は約3000分の1で、近代的水準器望遠鏡もない時代クワモッコだけによる手堀りの水路である。
工事着手からわずか三ヶ月という驚異的な早さ完成されている。
この地域複合扇状地帯であり、その中央等高線沿って横切った総延長15Km安曇野一の大水路である。一級河川奈良 井川より取水し、安曇野市のうちの旧豊科町、旧堀金村、旧穂高町の田を潤し一級河川烏川注いでおり、今現在も大幹線水路として、安曇野用水供給源としての役割担っている当時灌漑面積が旧10にもおよんでおり、10潤すというので十箇堰(拾ヶ堰)という名が 付けられた。

拾ヶ堰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 03:28 UTC 版)

拾ヶ堰
延長 15km
灌漑面積 1000ha
取水 奈良井川松本市島内)
合流 烏川安曇野市穂高
流域 長野県松本市安曇野市
備考 分類:横堰
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拾ヶ堰(じっかせぎ)は、安曇野を流れる灌漑用に作られた用水路)である。正式名称は、拾ヶ村組合堰。この堰は、奈良井川松本市島内)から取水し、梓川を横断し、更に大屈曲しながら、烏川安曇野市穂高)に至る約15kmの用水路で、安曇野における最も大規模な用水路である。疏水百選にも選ばれている。

安曇野は、扇状地であるため地下に水がしみ込んでしまう乏水地域である。そのため古くから農業用水に恵まれず、柏原村、吉野村の庄屋などが拾ヶ堰の開削を計画したものである。

2016年平成28年)、国際かんがい排水委員会かんがい施設遺産に登録された。

由来

江戸時代信濃国安曇郡成相組成相町村・成相新田町村、長尾組上堀金村・下堀金村、保高組吉野村・柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村の10ヶ村を灌漑する組合堰である。後に、長尾組中堀新田村も加入し、11ヶ村となる。

歴史

  • 1790年寛政2年)頃 - 等々力孫一郎烏川扇状地への灌漑用水の開削の計画を始める。
  • 1799年(寛政11年) - 中島輪兵衛が同様の計画を始める。
  • 1806年文化3年) - 2月、讃岐金刀比羅宮(航海安全の神であり水の神)を参詣し祈願する。
  • 1812年(文化9年) - 金比羅大権現を輪兵衛宅隣に勧請し社を建立。12月に岡村勘兵衛、白沢民右衛門などが計画に加わる。
  • 1814年(文化11年) - 5月に工事の絵図面その他見積願書を松本藩に差し出す(堰幅約5間、深さ約4尺、潰れ地の田畑の補償約60石)。同年末に堰筋に杭打ちがされる。
  • 1816年(文化13年) - 2月11日工事着手。5月11日に竣工。7月3日に完全に通水をみる。
  • 1817年(文化14年) - 拾ヶ堰が開削される。
  • 1849年嘉永2年) - 拾ヶ堰通船が開通。

開削功労者

計画・測量・設計
中島輪兵衛(1752年-1831年、柏原村元庄屋)
平倉六郎右衛門 (1759年-1841年、下堀金村作世話役兼堰廻役)
実務担当・協力
等々力孫一郎(1761年-1831年、保高組大庄屋(孫右衛門の養子)) - 総務として全体の指揮を担当。
岡村勘兵衛(1778年-1868年、吉野村庄屋) - 人夫出役担当。
白澤民右衛門(1749年-1832年、等々力町村庄屋) - 会計担当。
関与一右衛門(柏原村庄屋)

大町組を除く安曇郡全域から工事人足が動員された[1]

  • 保高組:1万6689人
  • 長尾組:2万788人
  • 成相組:1万5675人
  • 上野組:4602人
  • 松川組:3801人
  • 池田組:5597人

主な灌漑地域

穂高本郷・柏原全域・上堀・下堀

拾ヶ堰通船

1849年(嘉永2年)に松本から柏原村まで拾ヶ堰の通船が開通。船主は、柏原村の利兵衛・等々力孫右衛門の2人であった。米穀や酒を松本まで運び、帰りには日用品などを船積にした[2]

特徴

  • 拾ヶ堰は標高570mの等高線に沿って流れる横堰(よこせぎ)である。奈良井川の取水口から終点の烏川までの傾斜は約0.3パーミルで標高差はわずか約5m。水がゆっくりと流れるのが横堰の特徴で、押水(おしみず)という。
  • 灌漑面積、約1000ha。
  • 同じ標高を通すため、水準器(開発当時は、木製の素朴なものであった)による測量で開削された。
  • 過去には拾ヶ堰に架かる橋の欄干にある銘板を見ると「十ヶ堰」と書かれているところや「拾箇堰」、「十箇堰」などと表記する場合もあったが、いずれも橋の改修により名板が「拾ヶ堰橋」に書き換えられており、結果的に同じ用水路に同じ名前の橋が複数生じることとなった。

改修された際に全て拾ヶ堰橋に書き換えられている。

  • 18世紀から19世紀初めの信濃では概ね人口が停滞したが、拾ヶ堰などの諸堰の開削が奏功した安曇野では人口増加が続いた。
  • サイフォンにより、ラーラ松本付近で梓川の下を潜っている。昔は梓川を横堀で横断していたが、悪天候などで度々流されることもあった。大正時代、サイフォンが梓川に埋められ、現在のサイフォンが整備されたのは平成のことである。

記念碑

拾ヶ堰に関する記念碑は2つある。1つは、国道147号と交差する地点。もう1つは松本市島内犬飼新田の地である。

川沿の自治体

参考文献

  • 北野進『安曇野と拾ヶ堰』出版・安曇野、1993年
  • 南安曇郡誌 第2編下巻」
  • 長野県拾ヶ堰土地改良区編「安曇野の拾ヶ堰ガイドブック」2007年

脚注

  1. ^ 南安曇郡誌
  2. ^ 『穂高町誌 歴史編上・民俗編』穂高町誌刊行会、1991年、P320-P321

関連項目

外部リンク



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