用水路としての「堰」とは? わかりやすく解説

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用水路としての「堰」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 07:21 UTC 版)

波田堰」の記事における「用水路としての「堰」」の解説

松本盆地の「堰」としては、梓川以南筑摩野)よりも、以北安曇野)に多いようである。安曇野は、扇状地であるため地下がしみ込んでしまう乏水地域であり農業用水恵まれず水田開発には向いていなかったが、堰の開削により水田開発盛んになったという。 『波田堰百年史』(横山篤美著)によれば波田堰立案した時すでに下流12の堰があった。新たに堰を開くには、これらの堰の承認を得なければならなかった(13ページ91ページ)。同書は、これら12堰のうち流末7か堰として次の7つ掲げている(92ページ)が、他の5堰の名称について記述がない。 榑木堰(梓川右岸中萱堰(梓川左岸鳥羽堰梓川左岸松本市梓川倭岩岡付近で、梓川から取水1685年以前完成) 島堰 高松堰 北方飯田波田地区内には、上述通り波田堰の他に次の2つがある。和田堰937年以前完成考えられている。 和田堰梓川右岸黒川堰梓川右岸筑摩野梓川右岸)の堰として以下のものがある。 四カ堰 (塩尻市堅石で奈良井川から右岸台地取り入れ塩尻市広丘吉田分水1872年竣工島内新村栗林神林安曇野梓川左岸)の堰として以下のものがある。 拾ヶ堰正式には「拾ヶ村組合堰」。奈良井川松本市島内)から取水し、梓川横断し安曇野市穂高に至る。1817年完成勘左衛門堰奈良井川から小麦淵(松本市島立)で取水し、梓川横断し万水川に至る。1685年完成矢原堰安曇野市豊科高家熊倉北部犀川から取水し、安曇野市穂高で東に向かう。1654年開削新田堰安曇野市豊科熊倉梓川から取水し、末端万水川合流1608年ころ開削新堀堰 (堀廻堰)(安曇野市三郷住吉神社付近で温堰(ぬるせぎ)尻を取り入れ拾ヶ堰流入1861年完成富田堰安曇野市穂高西原拾ヶ堰から分岐する1920年完成長尾堰 温堰 穂高矢原烏川用水安曇野市で、烏川から取水する。かつては上流から倉田堰、上川五ヶ堰(堀金方面)、下川堰(穂高方面)、牧堰の4か所で分水し、稲作に使うだけではなく飲み水はじめとする生活用水として利用されていた) 五力用水明科の七貴・南陸郷地区で約50haを潤す1832年完成庄野横沢住吉小田井堰

※この「用水路としての「堰」」の解説は、「波田堰」の解説の一部です。
「用水路としての「堰」」を含む「波田堰」の記事については、「波田堰」の概要を参照ください。

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