用水路を断つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 18:45 UTC 版)
その後、阿蘇治時は8万余騎の大軍勢で攻めた。しかし赤坂城の三方は崖が高く屏風のようになっていて、南方だけ平地と細い道で続いていたが、そこも深い堀となっており、櫓が道の上に囲むようになっていたので、無理に通ろうとすると矢で射たれて全く進むことができない。死傷者は毎日500人以上を数え、それが13日も続いた。 そこに播磨国の吉川八郎という人物が献策して、「正成はここ一、二年は兵糧の確保に務めていましたから、城内の食が尽きないことに疑問はありません。しかし、火矢を撃っても水で消火されるから、豊富な水の蓄えがあるとは不思議です。おそらく地下に樋(水路)があって南の山から水を引いているのでしょう。人夫を集めて山のふもとを掘らせてみてください」と言ったので、四、五千人の人夫を集めて実行すると、まさにその通りだった。
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