用水路と農業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 02:12 UTC 版)
かつて武蔵野台地の中央、立川面には武蔵国の国府や国衙、国分寺が置かれ、武蔵国の中心となっていた。これは、武蔵国でもこの一帯が水に恵まれていたためであると考えられている。 一方、高位面である武蔵野面の開発は水の便が悪かったため江戸時代まで入会地として利用される程度の状態だった。このような状況を変えたのが、川越藩主の松平信綱による玉川上水や野火止用水の開削である。玉川上水は江戸市中の水道のために設けられたものであるが、野火止用水をはじめ多くの分水路は田用水としても作られ武蔵野面の水利の状況を一変させたという点からも重要である。また、川越藩主の柳沢吉保によって現在の所沢市・三芳町にまたがって三富新田が開発され、将軍吉宗期の享保の改革では役人集団を率いて地方御用を兼任した町奉行の大岡忠相により武蔵野新田の開発が行われた。 典型的な関東地方の畑作地帯であり、昭和も後半の高度成長期頃までは、米が2割から3割、それも陸稲米で冷えるとぽろぽろになる麦飯やかて飯を常食とし、水田地帯の人たちから「麦は軽いから、風呂に入ると浮いてしまう」と軽蔑されていた土地柄であったが、今日では武蔵野台地は大消費地を至近に持っている地の利を生かして傷みやすいホウレンソウや小松菜などの葉物野菜の供給地として、またキウイフルーツや花卉などの園芸作物の生産地となっている。また小麦の栽培が盛んであったことから、「武蔵野うどん」の産地にもなった。
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