用水開発の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 10:06 UTC 版)
長かった戦乱の世も大坂の陣を最後にして安定し始めると、各藩は経済の基礎である米づくりの改革を進めて更なる社会の安定化につとめた。加賀藩では、3代藩主前田利常による「改作法」の施行によって農政改革を図ったが、農民の間には本百姓、下百姓、頭振り(次男、三男)などの身分差が中世期農業のまま依然として残っており、多くの農民は請負耕作や、武家や商家への日稼ぎ奉公で苦しむことに変わりなかった。当時、農地の分割相続や切売りはまだ禁止されており、開墾による農地拡大こそが下百姓や頭振りの唯一の解放策であり、新田開墾と新村開村が随所で実施された。税の徴収から農法と農具の改良、開墾と開村など、勧農のすべてを担当したのが、江戸初期に確立された十村制度の十村役である。当時の野田山山麓(金沢市の野田から、十一屋、寺町、野町、弥生、泉、有松、寺地を経て山科へ至る線で囲まれる広範な地域)は、タケ、ササ、マツが生い茂るままの原野であった。同地域は、江戸初期から押野組(37村からなる十村役の管理単位、後に米丸組52村に組替え)に属しており、十村として同組を管理していた後藤太兵衛は、私財を投じて1655年(明暦元年)に泉野村を、1658年(万治元年)に泉野新村と泉野出村を開村した。しかし、同地区は水利が無いため稲作が不可能であり、灌漑用水の開発が必要であった。
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