用法1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 08:45 UTC 版)
自らの修行によって悟りを得るのではなく、阿弥陀仏の本願に頼って成仏することを意味している。 ここでの「他力」の「他」とは、もっぱら阿弥陀如来を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。 「他力」も参照 「本願」とは、あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことであり、人間の欲望を満たすような願いのことではないとされる。 親鸞は「正信偈」にて 彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯 (訓読) 弥陀仏の本願念仏は 邪見憍慢の悪衆生 信楽受持すること 甚だ以って難(かた)し 難の中之(の)難 斯(これ)に過ぎたるは無し と述べ、「邪見」や「憍慢」の心にとりつかれている私たちを「悪衆生」とし、その悪衆生が、本願の念仏を素直に喜び、いただき続けていくことは、「邪見」や「憍慢」が妨げとなり、はなはだ困難であり、困難なことの中でも、最も困難なことであって、これに過ぎた困難はない、つまりこれ以上の困難はないと述べている。そして、「正信偈」の上記部分に続く「依釈段」で七高僧の教えを説き、このような悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている。
※この「用法1」の解説は、「他力本願」の解説の一部です。
「用法1」を含む「他力本願」の記事については、「他力本願」の概要を参照ください。
- 用法1のページへのリンク