松原用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 18:00 UTC 版)
愛知県豊橋市賀茂町の松原分水工(県営かんがい用水事業での呼称は「照山分水工」であり、水資源機構のホームページでも現在そう記載されているが、現地の銘板には「松原分水工」と刻まれている。豊川用水二期事業で改築された際の図面記載は「松原分水工」)にて牟呂用水より分岐し、豊川市豊津町から豊川の右岸を流れ、豊川放水路と分流堰付近で交差し豊橋市大村町を過ぎた所で豊川に合流する。元は、豊川市松原町に頭首工のあった別の用水路であったが、頭首工改築に際し、一鍬田の頭首工の設備強化をして、牟呂用水と一体運用とした。正式名称は「牟呂松原用水松原幹線水路」。開削時期については諸説ある。 明治2年宝川の廃渠を用い、幅2間・長さ600間を開削して、井堰を松原村に移転(松原用水)。この時の総工費1,700両、うち700両は吉田藩からの補助、残り1,000両は松原用水井組24か村の負担。同8年豊川が増水し、松原の堤防が渡船場下で決壊。このため松原用水の新水路600間は大決壊し、井堰導水堤も大破。当村の戸長らは「松原用水ヲ廃シ、日下部用水ヲ復旧スルコト」を愛知県令鷲尾隆に請願したが、県では松原用水の位置の有利性を認め、豊川通堤防修繕工事を松原用水組合に命じ、約1,000円を交付。同22年本茂村の大字となる。 — 「旧地名」、角川日本地名大辞典 また、松原用水土地改良区の碑文には永禄10年酒井忠次によって開削、明治24年の三河国宝飯郡誌には「天文年中内藤弥太夫(大村内藤慶市氏ノ祖先)自ラ発起シ、八名郡橋尾村地内ニ堰ヲ創築セリ」と記載されているが、それらを裏付ける同時代史料は見いだされていない。
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