吉田用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 08:10 UTC 版)
吉田用水(よしだようすい)は、栃木県と茨城県を流れる用水路。
概要
江戸時代に飯沼の干拓と関連して井沢弥惣兵衛が開削した用水路である。1724年(享保9年)12月に着工し、僅か7か月余りで完成した[1]。
栃木県下野市本吉田(旧吉田村)より取水し、茨城県結城市、古河市(旧三和町)、八千代町、下妻市(旧千代川村)、常総市、坂東市(旧岩井市)に至る全長約56kmの用水路である[2]。
鬼怒川の河床低下により取水困難となったため1965年(昭和40年)より用水路の改良を行った[3]。吉田東伍は飯沼吉田堀と記している。
脚注
- ^ “テキスト / 吉田用水農業水利事業”. adeac.jp. 2023年9月6日閲覧。
- ^ “広報やちよ 2015年10月号 No.672”. static.ibaraki-ebooks.jp. 2023年9月6日閲覧。
- ^ “茨城の土地改良 第352号”. 茨城県土地改良事業団体連合会. 2023年9月7日閲覧。
関連項目
吉田用水
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岩手県(旧南部藩)から10歳の時に北海道へ移住した吉田善太郎は、1881年(明治14年)に20歳で家督を継ぐと、1888年(明治21年)に厚別川流域へ入植した。炭を焼いて札幌で売るため、柏の木が生えている土地を離農者から片端から買収していった結果、現在の月寒から大谷地、北野、清田に相当する広大な土地を所有するに至った。 柏を伐採した後の土地利用を思案していた所、近隣の農場所有者から水田の開発計画をもちかけられ、共同で用水路の開削にとりかかった。50人ほどで幅4メートル、深さ2メートルの溝を掘り、厚別川(現在の清田付近)から吉田農場を経て月寒川に至る5キロの用水路を1891年(明治24年)頃に完成させた。これが現在の吉田川である。 吉田善太郎は月寒に陸軍の駐屯地を提供して月寒村の発展に大きく寄与したほか、農場内に学校を設け(現在の大谷地小学校)、開拓民の子弟の教育に腐心し、多くの公職を歴任した。畜産にも注力し、吉田農場は八紘学園や社台ファームの基礎となった。
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