新田の基本設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 13:47 UTC 版)
1821年(文政4年)、福島献吉が、吉田藩(現在の豊橋市)の命により毛利新田となる位置の北東部に東・中・西富士見新田を干拓したが、波浪により破堤。現在は復旧され東明治新田と西明治新田と富久縞新田となっている。 1833年(天保4年)、江戸幕府により、渥美半島の付け根の北にある大津島を中心とした大新田を開拓するうわさが立ち、吉田藩主の松平信順が対抗のため福島献吉に新田開拓の吉田藩案の測量を命じた。福島献吉はその年の4月から12月にかけて、富士見新田の外廊の干拓と松原用水を参考にした灌漑用水路の測量を行ったが、その内容は後の毛利新田と牟呂用水と規模も形状も同じ(ただし二回新田は計画されてなかったよう)であった。しかし、大新田の開拓計画は実行されることなく、翌天保5年には幕府は計画を中止し、吉田藩の計画も立ち切えとなった。 福島献吉の測量は、岩本らにより毛利新田と灌漑用水の設計に取り入れられた。また、毛利新田は多くの天災により開拓をあきらめたが、その基本設計は神野新田でそのまま引き継がれた。
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