概略と歴史
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熊本県球磨郡湯前町馬返で球磨川から取水し、多良木町を通って末端はあさぎり町の神殿原(こうどんばる)に至る灌漑用用水路。着工は元禄9年(1696年)と翌年とする説もある。工事は球磨川の洪水、相良藩の財政窮乏による資金不足、当時の土木技術水準により困難をきわめた。役人高橋七郎兵衛政重が、1696年(元禄9年)から10年がかりで、1705年(宝永2年)に完成させた。百太郎溝の開削とともに、上球磨地方の水田化が著しく進んだ。しかし、扇状地にはまだ広い原野が残っていた。 約250年後の1958年に市房ダムの建設に関連して、本格的な県営球磨川南部地区土地改良工事が着工。市房ダムの下流部に作られた幸野ダムの水を取り入れ、受益面積は3500ヘクタールに及ぶ。完工は1968年。コンクリート張りの近代的水路に生まれ変わった。 2016年(平成28年)、国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録。
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概略と歴史
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はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。 — マタイによる福音書25:40 19世紀末の不況期である1894年に、アメリカの救世軍サンフランシスコ小隊で、連隊長ウィリアム・マッキンタイヤ中将の指示により小隊長ジョセフ・マクフィー大尉が始めた、失業困窮者の救済活動のための、「スープ鍋を三脚に吊るしてその中へ街頭募金の投入を依頼するというスタイル」が全世界の救世軍部隊に伝わった。 現地各国で伝統的に使われる鍋が上記のスタイルで利用されたので、日本においては「和風の鉄鍋が三脚に吊るされている」という明治時代の救世軍が始めた形態が現在にまで伝承されている。 日本では1906年に「慰問かご」という名称で開始された慈善事業が始まりである。これは餅やミカンを入れたかごを貧しい家庭に配ったものである。その後、1909年に山室軍平らが日本でもクリスマス・ケトルを開始した。当初は「集金鍋」と称されていたが、大正時代には「慈善鍋」と呼ばれるようになり、1921年以降は「社会鍋」の呼称が使用されるようになった。 以来、毎年年末の街を彩る風物詩として親しまれるようになり、俳句の季語(冬)としても定着している。 しかし近年では、都心部で街頭募金のための道路使用許可が降りにくくなり、社会鍋も一部で規模が縮小されている。 救世軍では、11月30日を「社会鍋の日」と定め、2015年11月20日、一般社団法人日本記念日協会に登録された。
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概略と歴史
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百太郎溝は灌漑用用水路である。熊本県球磨郡多良木町百太郎で球磨川から取水して、南南西に向かって進み、多良木町久米字野添の辺りから球磨川とほぼ並行に南西に流れており、あさぎり町を通って同町上北字柳別府から一時南に向かい、免田川を横切って、水無川でU字形をなしすが再び南西に向きを取り、錦町に至り、同町一武の下原で原田川と合流する。さらに錦町西へかけても遺構があるが、原田川より先は水が流れておらず使われてない。 最初の一期の掘削工事は16世紀末ごろといわれるが、余り記録が残っておらず、詳細は不明である。二期の工事は延宝8年(1680年)に、三期は元禄9年から10年(1696年 - 1697年)、四期は宝永元年から2年(1704年 - 1705年)。宝永7年(1710年)8月20日完成。五期は未完成の原田川以西の区間で年代も未詳である。1世紀以上の間に渡る掘削延長工事で、総延長19キロ、灌漑面積は1400ヘクタールの用水路となった。 幸野溝とともに上球磨地方の扇状地の水田化を著しく進めたが、こちらは藩の援助も、特別な指導者もおらず、農民だけで掘りぬかれた用水路であると言われ、名称も百太郎が人柱に立ったという伝説に由来する。その完成は幸野溝よりもやや後であるとも、五期工事の区間は事実上利用されていないので、先であるともされる。 1957年、多目的の市房ダム建設工事が始まると、これと関連づけた、大規模な県営の球磨川南部土地改良事業が翌年に着工され、1968年に完工。この事業の一環として、百太郎溝と幸野溝は本格的に改修され、漏水がひどい土水路からコンクリート張りの近代的水路に生まれ変わった。百太郎堰旧樋門は巨大な石材で作られており、水戸神社の側に保存されているが、もともと旧樋門は現在より100メートルほど下流に設けられており、取水口の位置も異なった。
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