概略・あらまし
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鴻応山はその山容が、能勢町の歌垣山から見ると富士山のようでもあることから豊能富士の異名がついている。一方、亀岡市西別院町柚原の側からは本当に鴻の様な形をして見えるという。はるかに阪神地方が見渡せる山頂付近にはリョウブ、ソヨゴ、クヌギ、コナラ、アセビ、ヒイラギ、ミツバツツジ、チヂミザサ等が自生する。 この山は、丹波高地や北摂山地にある他の山々と同様、準平原化した山脈が侵食されて残った残丘が、再隆起して作り上げられたと考えられている。 平安時代の、嘉祥3年、義顕上人が山麓を訪ねた時、この山の頂上に紫雲がたなびく中をコウノトリが2羽、舞い降りたり舞い上がりしているのを不思議に思い、その山頂に来てみれば2寸3分の仏が居られたという。そこで上人はこの仏を2尺3寸に等倍して薬師如来尊像を彫り、その体内に仏を納めた。その様な事から、山名を「鴻山」と呼ぶようになり、その後「鴻応山」と呼ばれるようになったと言われている。 江戸時代には、堂島の米相場の状況を知らせる狼煙をあげた場所であるとされている。 ところで、この山の麓、豊能町寺田には青峰寺という嘉祥3年開基の古刹が存在するが、この寺の山号を「鴻応山」といい、山名と同じ文字が用いられている。そのようなことから、この青峰寺の山号が山名の元となったという説もある。
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概略・あらまし
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「明神ヶ岳 (京都府・大阪府)」の記事における「概略・あらまし」の解説
山頂は辺り一帯が樹木で覆われているため展望が効かない。ただ、京都府側の尾根はクマザサの群生地であり、付近の植林された杉の間から、亀岡盆地と幾重にも重なって連なる丹波高地の山々を眺めることができる。 この山は、太古の昔、口丹波の亀岡盆地一体が大きな湖であった頃、大国主命が多くの神々をこの山の山頂に集め、篠村の山本と保津村の請田との間を切り拓いて湖から湖水を京都盆地へ流し、大きな平野を造り、町や村を建設しようと相談をしたという伝承が伝わっている。この計画を実行するには、湖を進み山を切り拓く(=保津川を開削する)ための木舟が必要であったが、その船に用いる木は、近接する黒柄岳とこの山から供出され、この山で造船もされていたという。現在もこの山の南側山麓の高槻市田能には樫船神社が残っており、その伝説を今に伝えている
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