明正塾時代
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1910年(明治43年)、大塚は早稲田大学専門部商業学科に入学した。1922年(大正11年)7月、大塚は沖縄県人学生寮「明正塾」に滞在していた船越義珍(富名腰義珍)を訪ねた。船越は大塚に「素人なら5年、武術の心得のあるものなら2年で大部分の形を習得するができる」と語り、同年8月中旬から本格的な空手の修業が開始された。大塚は、毎日1時から4時まで欠かさず船越のもとへ通い続けたという。一時は14人いた道場生も翌年の関東大震災のため一人もいなくなったが、それでも大塚は船越から一対一の指導を受けた。その結果、入門してからわずか一年半余りの1924年(大正13年)初頭には、大塚は船越が覚えていた形のほとんどを習得した。 船越から一通り形を学んだ大塚は密かに沖縄行きを決意した。二代目・大塚博紀(次郎)によると、船越が指導したのは形だけで組手はなく、またその場基本や移動基本といった基本稽古すらなかった。元来、柔術から唐手に入った大塚にとって、柔術の乱取りに相当する稽古が船越が教えた唐手にないのが不満であり、本場・沖縄で組手を学ぶ事を考えたのである。しかし、1924年(大正13年)5月、宮内省済寧館道場で唐手の演武をする事が決まり、大塚はこの準備のために沖縄行きを断念した。この演武会用に、大塚は自ら学んできた柔術の技術や様式を取り入れて組手形、真剣自刃捕、短刀捕などを制定した。本土における約束組手の誕生である。この時大塚が創作した約束組手は、後の和道流、松濤館流の組手の原型となった。その後、大塚は船越門下の小西康裕(後の神道自然流開祖)や下田武らと協力して、さらに組手の改良に取りかかった。創造心に溢れる大塚の性格が、近代空手の基礎を築いたのである。
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