明正塾時代とは? わかりやすく解説

明正塾時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 14:42 UTC 版)

大塚博紀」の記事における「明正塾時代」の解説

1910年明治43年)、大塚早稲田大学専門部商業学科入学した1922年大正11年7月大塚沖縄県学生寮明正塾」に滞在していた船越義珍富名腰義珍)を訪ねた船越大塚に「素人なら5年武術心得のあるものなら2年大部分の形を習得するができる」と語り同年8月中旬から本格的な空手修業開始された。大塚は、毎日1時から4時まで欠かさず船越のもとへ通い続けたという。一時14人いた道場生も翌年関東大震災のため一人もいなくなったが、それでも大塚船越から一対一指導受けたその結果入門してからわずか一年半余り1924年大正13年初頭には、大塚船越覚えていた形のほとんどを習得した船越から一通り形を学んだ大塚密かに沖縄行き決意した二代目大塚博紀次郎)によると、船越指導したのは形だけ組手はなく、またその場基本移動基本といった基本稽古すらなかった。元来柔術から唐手入った大塚にとって、柔術乱取り相当する稽古船越教えた唐手にないのが不満であり、本場沖縄組手を学ぶ事を考えたのである。しかし、1924年大正13年5月宮内省済寧館道場唐手演武をする事が決まり大塚はこの準備のために沖縄行き断念した。この演武会用に、大塚は自ら学んできた柔術技術様式取り入れて組手形、真剣自刃捕、短刀捕などを制定した本土における約束組手誕生である。この時大塚創作した約束組手は、後の和道流松濤館流組手原型となったその後大塚船越門下小西康裕(後の神道自然流開祖)や下田武らと協力して、さらに組手改良取りかかった創造心に溢れ大塚性格が、近代空手基礎築いたのである

※この「明正塾時代」の解説は、「大塚博紀」の解説の一部です。
「明正塾時代」を含む「大塚博紀」の記事については、「大塚博紀」の概要を参照ください。

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