日本禁酒同盟
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一般財団法人日本禁酒同盟(にほんきんしゅどうめい、英名:Japan Temperance Union)は、酒害に関する知識を普及し酒害の予防及び酒害者の救済を目指す団体。元文部科学省所管の財団法人。
注釈
- ^ 機関紙『反省会雑誌』が『中央公論』に発展することで知られる。
- ^ 旧幕臣で、箱館戦争に参加し投獄された経歴を持つ人物であるが、新政府に登用されて外交官となった。
- ^ 1868年以来移民が行われる。1886年1月に日布渡航条約が締結され、いわゆる「官約移民」が始まる。
- ^ 逓信大臣榎本武揚と日本郵船社長森岡昌純からの贈り物であった。
- ^ 福田基督教会(現在の日本聖公会福田教会)を中心に設立された。
- ^ 役員として中川永輝(通信書記)、池田次郎(記録書記)、土井操吉(会計)、潮田ちせ(女子部通信)、佐々城とよ寿(会計)を定めた[4]。安藤は当初は一委員であった[3]:22。
- ^ 美以はメソジストの意。
- ^ 青木庄蔵もキリスト教徒である。評伝として(牧野虎次 1928)がある。
- ^ 日本禁酒同盟会発足時の総副会長の一人。人名事典類では同盟の顧問と紹介されることが多い[8]
- ^ 「日本国民禁酒同盟は第二次世界大戦後は解散してまた各種団体に分かれた」とする事典もある[7]。
- ^ 教会堂は1917年に献堂された[9]。
- ^ 1934年(昭和9年)から1940年まで日本国民禁酒同盟の理事を務めた[3]:15
出典
- ^ a b c d e f g h i j “小塩完次記念 日本禁酒同盟資料館”. 日本禁酒同盟. 2019年12月10日閲覧。
- ^ a b “(一財)日本禁酒同盟の目標”. 日本禁酒同盟. 2019年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 後藤新「近代日本における禁酒運動 ─1890年東京禁酒会の設立まで─」『法政論叢』第55巻、2019年、2019年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab “日本禁酒同盟のあゆみ”. 日本禁酒同盟. 2019年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 後藤新「一般財団法人日本禁酒同盟より寄贈された資料について」『武蔵野大学政治経済研究所年報』第18巻、武蔵野大学政治経済研究所、2019年、155-170頁、ISSN 2185-2170、NAID 120006622350、2023年1月20日閲覧。
- ^ a b c “世界大百科事典内の日本国民禁酒同盟の言及”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 平凡社. 2019年12月10日閲覧。
- ^ a b 梶龍雄. “禁酒運動”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 小学館. 2019年12月10日閲覧。
- ^ “根本正”. 20世紀日本人名事典(コトバンク所収). 日外アソシエーツ. 2019年12月10日閲覧。
- ^ “安藤記念教会”. 港区ゆかりの人物データベース. 港区. 2019年12月10日閲覧。
- 1 日本禁酒同盟とは
- 2 日本禁酒同盟の概要
- 3 脚注
東京禁酒会
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1889年7月の時点で、日本には大小63の禁酒団体があり:18、この中には矢島楫子の東京婦人矯風会、林蓊の横浜禁酒会(第三次)、伊藤一隆らの北海禁酒会(北海道)、吉植庄一郎らの北総禁酒会(千葉県。のちに全国組織の必要を訴え自ら「帝国禁酒会関東支部」と改称:20)、高楠順次郎らの反省会(京都)などが含まれる:18。国家の文明化を果たす上で「国家的禁酒」が必要であるという考え方や、個々人に利益をもたらす「家族的禁酒」の考え方、あるいは禁酒を通じた社会改良運動の側面は、キリスト教徒に限らない人々に禁酒運動が受け入れられることにつながった:19-21。 1890年(明治23年)には、WCTUから2人目の遊説員としてジェシー・アッカーマン (Jessie A. Ackermann) が日本を訪れた:22。1890年(明治23年)年3月28日、築地にあったメソジスト教会において:22、アッカーマンに触発された佐々城豊寿・潮田千勢子ら(日本キリスト教婦人矯風会の創立メンバー)を中心として東京禁酒会が発足した。当初、東京禁酒会は代表者を置かず集団指導体制としていた。 1890年(明治23年)5月、第1回「大日本禁酒同盟会」が3日間の日程で、東京地学協会の会館(東京禁酒会の事務所が置かれていた)において開催された:23。アッカーマンの来日以前、佐々城と潮田は津田仙(1887年に『酒の害』を刊行し、積極的な禁酒演説も行っていた)とも相談し、横浜禁酒会・帝国禁酒会関東部・北海禁酒会に連絡をとって代表の上京を要請:23。上京した代表たちは、毎年1回の「全国禁酒同盟会」の開催を決議していた:23。第1回「大日本禁酒同盟会」は東京禁酒会を幹事として、上記禁酒団体やメソジスト教会宣教師らの参加を得た:23。なお、同時期には北海道で、北海禁酒会と仏教青年会が合同で「禁酒大演説会」を開催している:23。 1890年(明治23年)11月、東京禁酒会は総会で安藤太郎を会長に、根本正を副会長に選出した。
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