安藤太郎とハワイの禁酒会
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「日本禁酒同盟」の記事における「安藤太郎とハワイの禁酒会」の解説
のちに東京禁酒会会長・日本禁酒同盟会会長となり、日本禁酒同盟の「初代理事長」に位置づけられる安藤太郎(1846年 - 1924年)は外交官である。安藤は4,5歳の頃から酒を飲みはじめたかなりの鯨飲家であり、このために文子夫人が相当に苦労したと伝えられる。1886年(明治19年)、安藤はハワイ王国に総領事として赴任した。当時のハワイの日本人移民社会は荒んでおり、飲酒に溺れる者も少なくなかった:21。安藤も日本人社会に模範を示すべく禁酒をすることがよいことであると理解しつつ、踏ん切りがつかなかったという。 ハワイの日本人社会の状況を聞いた、サンフランシスコのメソジスト教会牧師美山貫一はハワイに移り、日本人移民の生活向上に尽力する:21。文子は美山貫一から米国の禁酒運動について話を聞き、禁酒は可能であり、また米国には一生禁酒を貫く人がいることを知る。1887年(明治20年)12月、文子夫人は、安藤のもとに届いた2樽の日本酒を処分(「樽割り」と称される)。安藤もこれを好機として禁酒をすることにしたという。なお、美山の影響を受け、安藤夫妻をはじめ領事館の館員が全員受洗する:21。 1888年(明治21年)4月、安藤はハワイで「在布哇日本人禁酒会」を設立した:21。この会は当時のハワイ在住日本人6300人余の約1/3、2000人余の会員を擁することとなり、その成功は日本国内に広く知られることとなった:22。1889年(明治22年)10月、安藤は夫人の病気療養のために日本に帰国:22。横浜禁酒会など各地の禁酒会:21に迎えられて禁酒演説を行ったが、「平民的軽妙な弁舌」と評される演説上手であり、禁酒運動のカリスマ的指導者になっていった:22。
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